和歌山大空襲から70年 語り継ぐ証言③

 70年前のあの夏、和歌山市築港の細畠清一さん(85)は、焼け野原となった市内の遺体埋葬場所だった旧県庁跡(現汀公園)に立ち、担架で運ばれた遺体が次々と大きな穴に投げ入れられるのを見つめていた。「何の関係もない国民が巻き込まれる、戦争は悲惨なもんや」――。静かに、あの日の記憶を語った。

 昭和20年(1945)当時は湊南尋常小学校(現在の雄湊小学校)のすぐ隣に住んでいた。7月9日、夕方には警戒警報が出たが普段と違い、いつになっても解除されなかった。

 夜更けに本格的な空襲となり、庭に掘った防空壕に母と兄、姉と4人で避難していた。兄が首を少し出して外を見ると、隣接する小学校の新校舎に炎が上がっていた。

 細畠さんは夏ぶとんをかぶり、一家で防空壕を出て逃げた。途中、兄は位牌(いはい)を取りに家に戻ったため、3人で三年坂を駆け下りながら、激しい炎を上げて燃える和歌山城を見た。三年坂は現在の3分の1ほどの道幅しかなく、人でごった返していた。焼夷弾の雨と炎の海で、一帯は昼間のような明るさだったという。姉は「喉渇いた。水飲みたいわ」とつぶやき、それが細畠さんが聞いた姉の最後の言葉になった。

 手平方面に逃げるつもりだったが、火の海に行く手をはばまれた。「お堀に飛び込め」という警防団の人の声に続き、周りの人々が次々と飛び込み始め、細畠さんも母と姉と一緒に水の中へ。堀には当時ハスがあったため、足元はぬかるみ、レンコンが足にまとわりついた。

 未明に空襲は収まりB29の姿は見えなくなったが、焼けた地面や熱気によって不発弾が爆発し、ドーン、ドーンと大きな爆発音が響いていた。細畠さんは「焼けた煙がいつまでも空中に残り、太陽は直視してもまぶしくなかった。数日はお日さんが黄色かった」と話す。

 堀の中に残った焼夷弾の断片を引き揚げると、赤ん坊が引っかかっていた。息をしているのかどうかも分からなかったが、土手の脇に寝かせておくと、若い女性が「うちの子や!○○ちゃん」とさけびながら、ぐにゃりとなった小さな体を抱えて立ち去っていった。

 空襲から数日後も、堀には足が水から逆さに出たままの状態で放置されていたのが目に焼き付いている。「戦争というのは、非戦闘員の一般市民を巻き込んで罪なこと。二度と起こってほしくない」

 明け方に母親と再会したが、姉の姿が見当たらなかった。「もう2人になってしまったのかも分からんな」と話しながら、自宅の焼け跡に戻った。幸い兄は小学校の防空壕にいて難を逃れた。夜勤だった父も戻り、家族で姉を探し歩いた。

 飛び込んだ堀へ探しに行ってみると、姉は堀の際に沈んで亡くなっていた。おそらく旋風に巻き上げられたのだろう。やけどなどはなく遺体はきれいな状態で、顔の一部が紫色になっていた。泥だらけの体を水で洗い、岡口門のクスノキの下で遺体と一緒に3日間過ごした。自転車に乗せた戸板に、ぐったりとした姉を乗せて、家族全員で遺体の収容場となっていた旧県庁跡へ運んだ。そこには埋葬のために直径6㍍ほどの3つの大きな穴が掘られ、次々と大勢の遺体が埋められていく。

 姉は当時20歳。せめてもの思いで、防空壕に保管していた、女学校の卒業式に着た袴に着せ替えて埋葬した。「埋められる人はみんな裸。きれいな衣装を着せてもらっていたのは、うちの姉ぐらいやった。堀に入ったあの時、自分も、もっとしっかりした年齢だったら、姉のことを気に掛けられたのに」と悔やむ。翌年には再び掘り起こされ、遺体が焼却されたという。腐食し、ひどい異臭を放っていた。

 その後、書家の道に進んだ細畠さん。小学校時代に書いた書は、戦地への励ましのために送られた。「皇國のみ柱」「ばんざい」などの文字は、今も大切に保管しているが「今は平和でいい。考えてみると、こんな言葉を書かされた子どもたちは、かわいそうだったと思う」としみじみ語る。

 現在、細畠さんの教室に通う生徒は皆、戦後生まれ。「戦争を体験するような世の中になってはいけない」。子どもたちの書作品にも、二度と悲しい文字が上がることのないよう切に願う。

家族写真を振り返りながら話す細畠さん

家族写真を振り返りながら話す細畠さん

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