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和歌山さんぽみちプロジェクト

家康紀行②岡崎城下町の「二十七曲り」

前号では岡崎城と徳川家康公を祭る龍城神社の歴史を取り上げた。今週は岡崎の城下町を紹介したい。

岡崎の城下町の発展は岡崎城を居城としていた家康が秀吉の命により関東への転封を命じられ、代わって入城した秀吉の家臣である田中吉政による街の造成に始まるとされる。時は天正18年(1590)。

吉政は武家屋敷や寺院を城の近くに配置し城の周囲を約5㌔に及ぶ田中堀と呼ばれる堀を巡らせるなど城郭を拡張。市内を流れる乙川の南を通っていた東海道を北に引き入れ町屋を形成するなど城下町の礎を築いた。

街の特徴は「二十七曲り」と呼ばれる屈折した道。まるで迷路のように東海道が城内を右へ左へ屈折する。その理由は秀吉の家臣である吉政が家康による攻撃に備えるために造ったといわれる。秀吉による転封の命により岡崎城をやむなく去った家康がこの地を奪い返しに来ることを恐れ、攻撃に強いまちづくりを行った結果、二十七にも及ぶ曲がり角がある城下町が出来上がった。寺院を集めたいわゆる寺町を設け、敵の見張り台や頑丈な壁を造らせるなど、10年の歳月をかけ完成させたという。

また、曲がり角が多い分、直線の道と比べ城下町を通る道の総延長が長くなり、多くの商店が東海道の沿道に店を出すようになり、岡崎の城下町は東海道五十三次の宿場町として大きな繁栄を遂げることとなった。吉政によるまちづくりは全国各地でも採用され、城下町ならではの光景として一般的となった。

この二十七曲りは、先の大戦の空襲による戦災復興に伴う道路整備などで、一部は失われたが、近年その価値が見直され、全長約4㌔の街歩きコースとして整備されている。

二十七曲りを紹介する石碑(名鉄岡崎公園前駅)

二十七曲りを紹介する石碑(名鉄岡崎公園前駅)

(次田尚弘/岡崎市)