WAKAYAMA NEWS HARBOR
和歌山さんぽみちプロジェクト

家康紀行⑭小豆餅と銭取

バス停の名称として残る「銭取」

前号では「三方ヶ原の合戦」から浜松城への敗走中、空腹を覚えた家康が立ち寄った餅屋に由来する「小豆餅」という町名について取り上げた。町名になるほど語り継がれるのには訳がある。餅屋の店主であった老婆の行動がそれを物語る。今週は地域で語り継がれる物語を紹介したい。
時は三方ヶ原の合戦が終わった直後。武田軍の追手が迫り、食べかけた小豆餅を置いて代金を払わず馬に乗り逃げ去った家康。様子を察した店主は代金をもらうことを諦めるであろうが、この餅屋の老婆は違った。いかなる場合でも代金をもらおうと逃げた家康を追ったという。
逃げた家康を老婆が発見したのは、餅屋から南へ約2㌔の地点だった。すかさず老婆は家康から銭を受け取ったという。まさにその場所が「銭取(ぜにとり)」という名で現在も呼ばれている。小字としての地名であったが住居表示に伴い「小豆餅」のような町名こそ残ってはいないが、現在もバス停の名称として存在している。
地元の観光ボランティアによると「実話ではないかもしれないがロマンのある話」という。実際のところ、合戦の最中に餅屋が営業することは考えづらく(地域の人々は身を隠すか合戦に動員されていた)、合戦の死者を弔うため小豆餅が供えられたことから「小豆餅」、たびたび山賊が現れ銭を取られたことから「銭取」として町名や小字として残ったのではという説もあるらしい。
実際のところは分からないが、合戦の歴史を伝えるエピソードとして作られた物語が「小豆餅と銭取」として、450年もの年月をかけ今なお語り継がれていることは事実。地域の人々の家康への思いの強さを感じた。

(次田尚弘/浜松市)