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和歌山さんぽみちプロジェクト

家康紀行⑮家康公の反撃「布橋」

地名に残る「布橋」

前号では、450年にわたり語り継がれる「小豆餅と銭取」の物語を取り上げた。銭取から南へ約2㌔の所に、これまた三方ヶ原の合戦に由来する地名が残る地区がある。今週はもう一つの物語を紹介したい。
「浜松市中区布橋(ぬのはし)」。浜松城から北西へ約1㌔、浜松駅から北西へ約2㌔に位置し、近くに静岡大学浜松キャンパスがある文教地区に「犀が崖(さいががけ)」という史跡がある。
三方ヶ原の合戦に敗北した家康は、先に紹介した小豆餅、銭取でハプニングを起こしながらわずかな家臣を連れ浜松城へ逃げ帰った。すでに辺りは暗く、家臣の顔も見えない状況であったため、家康は傍にいる家臣の刀に唾を吐き掛けながら城を目指したという。後に家康は家臣の刀を集め、自らの唾が掛かった者に、馬脇でしっかりと護衛してくれたと称賛し褒美を与えたといわれている。
命からがら浜松城に帰参した家康であったが、目前まで武田の軍勢が押し寄せていた。そこで家康はあえて城の全ての門を開きかがり火を焚く「空城計(くうじょうけい)」という戦術に出る。これに敵軍の指揮官・山県昌景はちゅうちょする。徳川の兵が全滅し門が開け放たれたままであるのか、それともわななのか。悩んだ末に山県氏が下した決断は「突入せず退却する」であった。
それを見た家康は、休息を取る武田の軍勢を夜討ちしようと試みる。浜松城から北西へ約1㌔。「犀が崖」という崖の近くで武田の軍勢が野営をしていた。気付かれぬよう崖に布をかけ、背後から襲い掛かった徳川の軍勢。これに驚いた武田の軍勢は崖に架かった布を橋と勘違いし、次々に崖下へ転落したという。これが「布橋」の名の由来とされる。

(次田尚弘/浜松市)