■2003鶴保庸介
先日、北朝鮮の不審船の引き上げ現場に行く機会がありました。
引き上げ直後鹿児島で展示されていたものを、東京へ移送して改めて一般に公開しているものを見に行くことになったのです。生々しい弾痕が目に焼きつくとともに、こうした展示を通じてでしか「有事」を実感できないでいることのジレンマにがく然としたりもしました。
歴史が指摘するように、国家は経済で滅びはしません。古今東西国家が滅亡するのは外交においてでありました。つまり、経済的に立ち行かなくなって革命が起きても、私たちの国家は続く。国家とは自らの国を自立的に運営しようとする気概があれば存続するのです。そして、外交で滅びるとは、言い換えればその自らが持つ国家運営の気概を失ったとき、ともいえるでしょう。
簡単に言えば、自分たちの国は自分たちで守る、あるいは運営する、という愛国心、愛郷心が何より重要で、それが無くなれば自然、国家は滅んでいくのです。
確かに、国家などというものは時代時代に応じて枠組みが変わり、将来は世界が一つになっていくのだから、小さな単位国家が滅んでいくことこそ世界の進歩だ、という向きもあるでしょう。
しかし、その場合でもこの世に生を受け、生まれ育った土地に愛着を感じ、個人的に触れ合った人々への愛着を感じるのは人間の本性としてあり、これは変えようもありません。とするならば、国家という言語的、文化的、地理的一体性としての存在は未来も続くことになると思います。瞬時に何万キロをも移動できる手段が開発されない限りは。
私は今日の日本がこうした国家を構成する国民としての自立、気概を失っているように思えてなりません。それは何ごとをも国家単位で行動するむき出しの全体主義を意味しません。地域を愛するように国を大切に思い、お世話になった人々に感謝するように、育ててくれた国という存在に感謝する、という単にそれだけのことなのです。なんだ、存外簡単なものじゃないかとお叱りを受けるかもしれません。
しかし、ではその国を運営する政治というものを「興味ない」と片付ける主権者の態度は何でしょうか。国家からの自由を叫びながら、何か問題が起こるたび、国がしてくれないとばかり嘆く面々はどう理解していいのでしょうか。
国家の税金で養ってもらっているという感覚を失った政治家や役人の醜態。どれを取ってみても、「公共心」にはほど遠い。私は個人の自立に裏打ちされていない行き過ぎた個人主義はその個人そのものの安全、安心を奪うのではないか、と思うのです。
時あたかも、イラクヘの派遣立法が参議院で審議されています。そして、地域を変えるであろう市町村の合併運動が県内各地で議論が沸き起こっている今。一人ひとりがこうした国家、郷土への思いを問い直される時が来ているのではないか。不審船で戦った保安庁職員は今も精神約ショックを負っていると聞きます。こうした職員の努力が無駄にならない国づくりが求められている。そんなことを考えた夏の一日でした。
(2003鶴保庸介)
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