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f_ss_nikai.jpg 二階 俊博
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2008年04月22日

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朴智元・元官房長官が大勝利 韓国の第16代国会議員選挙
5_5.gif ■2008二階俊博

 2008年4月13日、第16代韓国の国会議員選挙の投開票が行われた。
 開票の結果を今や遅しと私は待っていた。中でも、全南木浦市の開票に、私は祈るような気持ちで、ある「友人」の当選の報に首を長くしていた。
 第一報は韓国で特派員経験のSさんから朴智元(パク・チウォン)氏が当選されたとの朗報が届けられた。翌朝、友人H氏が国際電話で有権者8万4835人の中で朴候補が4万5466票を獲得、得票率53・6%で次点以下を大きく引き離して、圧勝されたとのことであった。
 この朴智元氏と最初の出逢いは、1999年10月、済州島で開かれた日韓定期閣僚会議の場であった。
 小渕内閣の運輸大臣の私の直接の交渉相手の一人が文化観光大臣の朴智元氏でした。もちろん、その時はお互いに初対面ながら、意気投合した。日韓観光大臣会合や日中韓の観光大臣会合等の創設や2001年の世界観光機関(WTO)総会の日韓共同開催等についても、合意を得ることになった。
 2002年のサッカーワールドカップの日韓共同開催を契機として両国が世界に向けて、歴史文化の遺産等の素晴しい観光資源についてアピールする等積極的な観光振興のための両国間の相互協力を約束した。その後も、仙台で、大阪で、大臣会談を催す等、さらに、日韓の空のルート金浦―羽田ルートのチャーター便の創設等、金大中大統領の意を受けて、朴大臣は熱心な主張を続けられた。仙台発大阪行の機中においても交渉が続いたことが、仕事熱心な朴氏の面目躍如たるものがあり、今でも記憶に新たなものがある。
 平成2年4月、日本遺族会の会長に就任された古賀誠先生が、金大中大統領と会見の際、私もご一緒させていただきましたが、この時も大統領側近ナンバーワンといわれる朴大統領政策特別補佐官にお世話になった。
 2002年6月、私が韓国政府から観光交流についての努力が認められ、「修交勲章光化章一等級」を叙勲の際、大統領秘書室長(内閣官房長官)として、私の同志の皆さん方も青瓦台にお招きいただきき、日韓の友好を熱っぽく語ってくれた。
 しばらくして朴氏は、大統領の密使として北朝鮮をたびたび往復され、金正日総書記と会談を重ねておられた。時が移って2003年6月、北朝鮮への送金の件で、突然、収監される事態となった。詳しいことは知る由もないが、懲役3年の刑の宣告を受けられ、私は生活環境の変化にひたすらご健康であられるよう祈るばかりの毎日でした。
 2005年、与党三党の幹事長として武部・冬柴氏とともに病気療養中で刑の執行停止中の朴氏とお目にかかり、旧交を温めると同時に、激励を申し上げた。私はこの間、友人たちの計らいで、二、 三度お手紙を認めた。それには「やがて疑いが晴れて、日韓両国の橋渡しの重要な役割を果たされる日が必ずくる 日韓両国がやがてあなたの指導力を必要とする時がやってくる」と書いた。2007年2月恩赦により自由の身となられた。一度は金大中元大統領とともに来日された。また、私はご家族とともに、伊豆長岡温泉や白浜温泉にお招きした。しかし、今後、いかにしてこの有能な政治家の名誉を回復することができるのか。彼に大きな期待を寄せる人々の間の最大の関心事であった。このたびの国政選挙で衆望を担って、金大中元大統領の郷里から、無所属で5人の候補の中で断然トップで堂々たる勝利を果たされた。私が運輸大臣時代、韓国の閣僚であった朴氏との間で「兄弟の契り」を結んだことも知る人ぞ知るエピソードである。今、金大中元大統領やご家族の皆さんが、愛弟子朴智元氏のご当選をいかほど喜んでおられることか想像するだに胸が熱くなる想いである。


(2008二階俊博)
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