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f_ss_nikai.jpg 二階 俊博
f_ss_nishi.jpg 西 博義
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f_ss_tsuruho.jpg 鶴保 庸介
f_ss_sekou.jpg 世耕 弘成
f_ss_ooe.jpg 大江 康弘
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2008年05月13日

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今も昔も変わらない 和歌山人の道路への思い
5_5.gif ■2008西博義

 和歌山県には、 平地がほとんどない。 急峻な山が、 いきなり海に突っ込んでいるような地形だ。
 平安時代末期の歌謡集 『梁塵秘抄』には、生涯に34回の熊野詣を行った後白河法皇が「熊野へ参らむと思へども/徒歩より参れば道遠し/すぐれて山きびし (略)」と詠まれ、 熊野へ飛んでいけるように羽を与えてほしいと願われたほどだ。
 近代に至り、 和歌山にも鉄道や道路を整備しようという動きが出てきた。
 百年前の明治43年、 和歌山県選出国会議員が中心になって帝国議会に 「紀勢鉄道建設に関する建議案」 を提出したのをきっかけに、 県民あげての運動が展開された。
 結果的には、 和歌山―田辺間が昭和7年、 和歌山―新宮間が昭和15年に開通し、 紀勢線の全通は昭和34年であった。
 ところで、 先月25日から29日にかけて 「道路特定財源の再可決を求める大行進」 が行われた。
 この行進は、 30の全市町村を経由して、 5日間にわたって行われた。 仁坂知事をはじめ、 延べ60人が参加されたと聞く。
 このエッセーを書くための下調べで、 鉄道建設に関する県民運動を知り、 この度の 「大行進」 に改めて感慨を深くした。 和歌山の交通を良くしようという先達たちの思いは今のわれわれと変わらないのだ。
 道路整備に関しては、 県の南北を貫く 「熊野街道」 が開設されたのが明治43年。 自動車の出現により3~5㍍幅に改修されたのが大正11年である。
 私の生まれは、 和歌山県の南北を隔てる交通の難所・鹿ヶ瀬峠のふもと広川町津木地区であるが、 熊野街道はこの津木地区を通っていたのである。
 私の小さいころは、 このデコボコ道が南北をつなぐ唯一の道で、 バスやトラックが対向するのに難渋していた。
 熊野街道は、 昭和34年に一級国道42号線に昇格したが、その整備のひどさは酷道とか死に(42)号線と呼ばれていたことからも伺える。
 昭和40年に至って由良バイパスが完成し、 同時に片道一車線の国道42号線がようやく舗装化されたのである。 現在は、 由良バイパスが国道42号線になり、 旧道は県道井関御坊線となっている。 それまでは、 高校へ通う片道10㌔㍍の道は砂ぼこりが立ち、 学校に着くと学生服は真っ白となった。
 そして、 この地に、 片道一車線の有料道路 (湯浅御坊道路) が通ったのは平成8年のことである。
 なお、 この区間の交通量は、 平成17年度実績で平日24時間交通量1万2500台と、 片道一車線の有料道路としては国内でも格別に交通量が多い。
 このように道路網も徐々に整備されつつあるが、 和歌山県全体では、 高速道路の整備や国道・県道の改良率ともに全国で最も遅れている県の一つである。
 道路整備によって、 利便性が良くなることや、 企業立地や観光振興といった経済活動を促進するメリットもあるが、 和歌山では、 住民の生活を守る重要な役割を果たす。
 とくに、 東南海・南海地震が発生した場合、 津波が国道42号線を寸断することが予想され、 他に道路がないことから救援が大幅に遅れてしまうことが大きな課題だからだ。
 道路整備は、 県民の支援が欠かせない。 先日の大行進で示された和歌山県民の思いが実現されるように全力で取り組んでまいりたい。


(2008西博義)
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