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f_ss_nikai.jpg 二階 俊博
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2008年08月19日

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医聖 小山肆成の生誕の地 旧日置川町久木を訪ねて
5_5.gif ■2008二階俊博

 8月13日、 私は日置川の畔、 白浜町久木の徳清寺に眠る父の墓参りに出かけた。
 真夏の太陽の下、 吹く風は頬を伝い、 清流日置川の流れを耳にしながら、いつの間にか集まってくれた近所の人たちや親戚の人々に囲まれ、 久し振りに都会の喧騒を忘れさせてくれるつかの間の夏休みを楽しませてくれた。 墓には前日お参りした家内が花を替えてくれていて、 色づいたほおづきの花が鮮やかであった。 墓参りを終えて、 親戚の家に立ち寄って、 冷たいビールをご馳走になり、 集まったいつものメンバーで世間話とふるさと日置川の話に花が咲いた。
 町村合併で旧日置川町は隣の白浜町との合併の道を選んだ。 久木から白浜町の庄川に抜ける懸案の道路の建設が話題になった。 今から33年前の春、 私は県会議員に初当選の際、 父と一緒に久木を訪ね、 選挙の折、 心配をして下さった人々の前で御礼のご挨拶をさせていただいた日のことは、 今でも覚えている。 その時も、 この道路のことが話題になった。 亡父俊太郎の説明によると、 一人で歩くのが精一杯のこの道が、 蚕道と呼ばれ、 養蚕が盛んな頃で、 背中に蚕の糸を背負って、 この小さい道を通って、 白浜町に届けるのがこの地域の地場産業の一つであった。 「自動車の時代に、 日置川と結べば、 白浜町のためにも、 日置川町のためにもなる」 というのが、 一年生ほやほやの県会議員の私への父からの注文であった。
 その後、 今日まで、 県当局や両町の代表者の皆さんもご努力をいただいたが、 用地買収で行き詰まっていた。 ようやく近ごろになって、 あらためて気運が盛り上がってきて、 白浜町の立谷町長さんも、 県土整備部の皆さんも積極的で、 地域の皆さんも残り区間の開通を目指して頑張っているとの報告を受けた。 地元が中心となって関係地主さんの協力を求め再び立ち上がることが期待されている。 私も当初から関係している一人として協力を約束した。
 この久木の地には、 昔から伝えられている種痘医 「小山肆成」 の生誕の地でもある。 知る人ぞ知る日本の西洋医学の黎明期に活躍された医聖の出身の地であり、 そのことは旧日置川町の役場前にも碑が建てられ、 町民の誇りとしている。  
 種痘と言えばジェンナーを想い起こす人は多い。 しかしこの寒村に生れた医聖は、 不治の病とされた天然痘との闘いに生涯を捧げられたなぜか気になる存在であった。
 この病にかかると、 当時は人里離れた山奥の種痘小屋に隔離され、 死を待つ以外に道はない悲惨な時代であった。 痘瘡は千数百年のあいだ治療法も知られない時が続いた。 肆成の不治病として恐ろしがられていた天然痘との苦闘の歴史はささやかに語り継がれていた。 ジェンナーの種痘法に先がけて成功した肆成の業績は、 日本の医学会でもほとんど知られていない。
 初当選の頃、 早速、 国会図書館で調べた。 5行記されているだけであった。 そこで天狗太郎こと作家の山本享介先生に依頼して 「種痘医小山肆成の生涯」 を時事通信社より出版していただいた。 平成6年12月であった。
 この夏、 生誕の地に記念館のようなものを造りたいという気運がようやく盛り上がって来たといううれしい話を聞いた。 発起人の一人にとの依頼を受けたが、 光栄なことと思っている。 語り伝えられる地方の文化が、 やがて、 ふるさとの新しい芽を育てることにつながることを期待しつつ、 白浜空港へ向かった。


(2008二階俊博)
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