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2010年06月15日

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政治に何を望み、何をあきらめるか 大政党離れ始まる英国に学ぶ
5_5.gif ■2010鶴保庸介

 英国が動きましたね。二大政党制の先輩であり、あらゆる意味で日本の政治制度のモデルとなった英国の総選挙で、保守党、労働党のどちらもが過半数に届かないいわゆる「ハングーパーラメント―宙づり議会」となりました。
 このことは我が国にも少なからず影響を及ぼすのではないでしょうか。

 日本と違って完全小選挙区の英国ですら、有権者の大政党離れは始まっていて、本当に二大政党制なるものが「目指すべき政治」であったのか、ということになるわけです。

 まだまだ日本の政治は二大政党政治が根付く方向にはなっていません。ある日マスゾエさんとそんな話をしていたら、その日のうちに記者会見で新党を興されましたのには驚きましたが、私は以前から日本では二大政党政治が根付くには相当な「努力」と「時間」が必要と説いてきました。

 「努力」とは二大政党政治を裏付けるシステムがいまだできていないということです。
 長い自民党政治を支えてきたのは強固な地方組織と、利益代表となる組織の票であることは言うまでもありません。ところが、財政的な問題が表面化し、政治に参加することで自らの利益を直接具体化することは難しくなってきたため、組織の票は以前ほど機能しなくなってきました。そこで草の根の地方組織が大切な役割を果たさねばならなくなってきたのですが、これをささえる「やりがい」は低下する一方です。つまり、選挙で協力してやろう、という自民党員はたくさんいますが、何のためにそこまでする必要があるのかといわれるとどの道、政治は変わらないというあきらめが先に立って、「活動家」は少なくなっています。この点、英国が決定的に違うと私が考えていることは、①英国では運動することによって、その「活動家」自身に政治家への道が開かれる、という「飴」を与えていること、また、②こうした党の方針を有権者により伝えやすくするためにさまざまな選挙制度の担保があるということです。

 まず、この「飴」ですが、若き日のブレア元首相がそうであったように、党の若き宣伝マンとして地区の皆さんに党の方針を伝える能力にたけた人などはやがて「候補者」として党から認められ、現実に政治家として活躍する道が開かれます。この点、日本でも秘書や党所属の地方政治家として活動し、これを踏み台にして政治家になるケースも多いのですが、私自身の経験からして、党に帰属というより政治家個人に帰属する秘書という立場では、親分たる政治家の立場や実力に左右されるため、秘書本人の資質はあまり斟酌されていませんし、これを客観的に党が評価する仕組みではありません。

 また、いったん地方議員などとして当選した後はその中から国政への新たな候補者としての資質を認めるというシステムが確立していません。

 また、候補者となってからの制度も大きく違います。英国では出馬した後運悪く落選したとしても、引き続き候補者として適任と認められた場合にはその身分保障は党が責任を持つのです。選挙費用なのか生活保障なのかどうかまでは定かではありませんが、党が一定の金額を支給すると聞きます。日本では考えられません(といっても裏で義援金のような支給はあることが多いですが、それは党から、というより、親分から、というものが多いのですね)。これでは優秀な人材が職をなげうってというのに躊躇するのは当たり前です。
 先日、応援してくれている大手企業の幹部の方とお話をしていたら、出馬期間中は休職扱いにしている、とのお話を伺い、うらやましいと感じたと同時に、日本でもこの手のやり方が皆に平等に法で担保される必要があると思ったものです。

 また、イギリスでは党営選挙といわれるように、党員が各戸別にお邪魔をして理念や政策を訴えることは原則として規制されていません。日本では、買収の温床となるとして、運動員が戸別訪問を選挙期間中行うことは禁止されていますが、買収を気遣わねばならないほど日本人は未熟なのか、そろそろ抜本的な見直しが必要だと思います。また、公明党など、組織運動員がたくさんある政党に有利だという指摘もありますが、政治に強い関心があるにも関わらず、選挙には無関心という現状はまさに民主主義の否定につながります。特にマスコミが圧倒的な影響力を持つ日本では、マスコミの伝える「荒っぽい」結論を国民は鵜呑みにしがちですが、彼らには一つ一つの問題への賛否はあっても総合的な国の運営や哲学はありません。したがって、国民にこの「真実」をより多くの人に伝える必要があるのです。この意味からもどうしたら候補者の考えや党の方針を浸透させるかは非常に重要です。現下の選挙制度のように、人集めをして個人演説会をする、という手段しかないのでは必然的に一定の層に対してのアクセスはできなくなりますし、結果として候補者はこれらの層に浸透させようと、自転車でのぼりをつけて走り回るとか、ひたすら街頭で頭を下げるしか方法がなくなってしまうのです。この意味でインターネット選挙なども、候補者の資力によって差の出ないシステムを作る限り、一日も早く解禁すべきです。

 こうした「努力」も本当の意味で国民的制度として定着するまでには相当の「時間」が必要でしょう。

 しかし、少なくともこうすれば良くなる、という方向が分かっているのに現状を維持していこうとするのはまさに凋落の始まりです。「変わらずに生き残るために、変わらねばならない」のです。

 二大政党制度を否定し、安定政権を志向したところから自民党の間違いの原点があるとするなら、そろそろ政権を奪回し、再び唯一の安定政権に戻るという幻想から抜け出すべき時が来ているのかもしれません。この意味で最近、民主党がさまざまな形で選挙制度の改革に手をつけ始めていること自体は私は基本的に賛成したいと思います。

 ただ、自分の国家像に合った政党を探すのは容易ではありません。

 これだけ価値観が多様化している今、この政策はいいけれどこの政策は嫌いというのはよくあることです。私達は政治に何を望み、何をあきらめるか。そろそろ真剣に向き合わなければならない時が来ているのかもしれません。


(2010鶴保庸介)
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