■2011大江康弘
ことしの台湾は熱い。
誤解のなきように、気温ではない。
辛亥革命から丁度100年、大きな節目を迎え、国父である孫文という大革命家に想いを成し、新たな100年に向かって、国を挙げて進んでいこうという気概が感じられる。
そんな中、先日、台湾の皆さんとの会があり、孫文先生のことが話題になったので和歌山県とのご縁を申し上げた。
「実は孫文先生がイギリスに滞在(1896年9月~1897年7月まで約9カ月)中、もっともよく会われ親交を深められた人が南方熊楠翁なのですよ」と申し上げ、和歌山県の出身で人生の大半を私の生まれ古里である田辺市で過ごされ、植物学や菌類の研究活動を続けられた話を申し上げた。
実は私もこの2人の親交は意外であった。
人間の出会いとは本当に不思議である。
革命運動に明け暮れた人生の孫文先生と、植物採集や菌類の研究に没頭した人生を送った南方熊楠翁が、まさか遙か遠い英国で、その縁の赤い糸をお互いが引き合うなど、本当に不思議としかいいようがない。
また、考え方や行動や価値観が180度対極にあると推察される二人が実に英国でよく相まみえて親交を深めた等と聞けば、益々人間の出会い、運命の不思議さを痛感せずにはいられない。
孫文先生が英国に渡ったのは、1896年の9月末でニューヨークからであったという。
英国滞在の約9カ月間は彼にとってのそれまでの、革命に明け暮れた日々の疲れを癒し、精神的な充電期間であった。
そんな中、南方熊楠翁との運命的な出会いが訪れる。
南方熊楠翁は孫文先生より約4年早くロンドンへ来ている。
大英博物館勤務で東洋関係の資料整理を手伝っている頃、自らを引き上げてくれた大英博物館東洋図書部長のダグラス氏の部屋で孫文先生と運命的な出会いをする。
以後、「3日にあげず」という位頻繁に会っていたという。孫文先生は酒が飲めないそうだが、熊楠翁が行きつけの今風に言えばパブで延々と話し合っていたというから、とにかく気が合ったのだろう。
熊楠翁は1867年4月生まれで孫文先生よりも5カ月年下というから年齢も近いということもあり、しかし片や革命家、片や植物学を中心とした学者、酒を飲めない者と豪放で酒豪家(らしかった)、また国籍も違う対照的な二人が「3日にあげず」会うくらい意気投合したのは何が理由であったのか。大変気になるところである。
その後、熊楠翁は1900年の暮れ、13年間に及んだ海外生活にピリオドを打ち、日本に帰ってくるが、その頃、たまたま孫文先生も広東省恵州での武装蜂起が失敗し、横浜に亡命していた。
それを知った熊楠翁は孫文先生に連絡したところ、1902年2月に初めて和歌山へ訪れた。わずか2日間の滞在であったが、恐らく2人は英国滞在中を思い出し昔話に花を咲かせたに違いない。
「ただ人の交わりにも季節あり」と日記に書いている通り、その後再び会うことがなかった二人であったが、孫文先生の死を知った日、熊楠翁は一日中、自宅の書斎に籠りっきりであったといわれている。
不合理を正し得ない事なかれ主義や官僚主義を憎み、若い頃からそれぞれの与えられた天命を果たそうと自らの運命と一生かけて戦い続けた二人であった。お互いに専門とする分野も生まれも違い、性格もおよそ対照的な二人がこのようにお互いを認め合い、肝胆相照らしたのだろうか、不思議でしかたがない。
孫文と熊楠翁の二人の交友の記憶は1世紀以上を経た今を生きている私達に、多くのヒントや示唆を与えてくれている。
(2011大江康弘)
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