2010年01月03日

00.社会

伏虎像の謎に迫る!【新年号5部34面】

風吹山弁財天院,角田蘇風

風吹山弁財天院,角田蘇風
ことしのえとはトラ。 トラとくれば虎伏山の和歌山城。 城のふもと、 和歌山公園には巨大な伏虎像が横たわっているが、 これ一体誰が作ったの? シンポー特捜部 「和歌山ディープスポット調査部」 がたどり着いた答えとその先にあったものとは...。


風吹山弁財天院,角田蘇風 調査に乗り出したのは、 「和歌山のディープスポットなら知らないところはない」 と豪語するタオ隊員と 「昼飯ごちそうするから」 と誘われてついてきたモトムラ隊員だ。

まずは、 伏虎像の紹介から。 そもそもなぜ和歌山城の別名が虎伏城なのか? 実は和歌山城を海上から見ると虎が伏している姿に似ているから、 らしい。 いつの時代からか分からないが、 城郭内に虎の像は置かれるようになったという。 昭和17年までは立った虎の像があったことは本紙が2年前に報じて話題になった。
伏虎像じゃなく、立虎像 貴重な戦前の写真、新堀の民家で見つかる (2008年06月14日)

現在の伏虎像は昭和33年、 かつらぎ町出身の造形家・角田蘇風氏が制作した。 巨大な石垣の前にあるから小さく見えるが、 写真を撮ろうと近づくと、 とてつもなく大きい。 その迫力たるや、 思わず息を飲んでしまった。 そして、 ゆったりと漂う面白みとカワイさ。 撮影する角度でトラの表情が変わることにも驚いた。 「む~っ、 この蘇風氏とかいう造形家、 ただ者ではないな」。

風吹山弁財天院,角田蘇風
■達磨大師など林立
風吹山弁財天院

「角田蘇風? むむむむ」 考え込むタオ隊員。 彼の薄い記憶によると、 かつて調査したディープスポットの一つにも、 蘇風氏の作品が現存するらしい! 現場百回、 向かったのは岩出市の風吹峠。 ホテル街を北に抜けてすぐ、 それはあった。

風吹山弁財天院

道路から達磨大師の巨大な頭が見えるから、 ご存じの読者も多いかと思う。 しかしここは達磨大師をまつっているわけではない。 実際足を踏み入れた経験のある人もそれほど多くないだろう。

さまざまな仏様の像がカオスな雰囲気で林立する境内の一番奥、 白く巨大な弁天様がそこにおわした。 全高7メートルのコンクリート作り、 日光を浴びてまぶしく光って見える。 拝殿内の由緒書きによると、 昭和42年の建立で当時は 「大きさ」 と 「美人」 の点において 「日本一」 とされ、 開眼式はテレビで全国放送されたという。

■岩出で兄弟像発見!日本一の弁天様

風吹山弁財天院,角田蘇風 そう。 この弁財天を作ったのが蘇風氏その人。 なんと、 車中より注目すれば運転者と弁財天様の目が合うように作られていて、 交通安全の願いが込められているのだ。 また、 ふくよかで優しい姿が、 蘇風氏の作風を表している。

実は、 境内に佇む数々の仏像はすべて蘇風氏の手によるもの。 風吹山弁財天院はまさに 「ザ・蘇風ワールド」 だった。

意外に知られていない郷土の巨匠・蘇風氏。 彼の仕事とそれに込められた願いを我々は忘れない。


風吹山弁財天院,角田蘇風作ったのはこの人
風吹山弁財天院,角田蘇風角田蘇風(すみたふそう、 1898―1977)
明治31年7月1日、 花園村(現かつらぎ町花園)に生まれる。 門妙松岡長之助。 松岡家の長男ながら角田家の養子となり、 明治期の南画家・角田梅崖の後継者として角田蘇風を名乗る。 樹脂やコンクリートの加工を得意とする造形作家で、 現代アートの先駆者。 和歌山市内にアトリエを構え活動していたが晩年は東京に居を移し、 昭和52年、 79歳で没。 和歌山城や風吹峠以外に高野山奥の院の灯籠などにも作品を残している。

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