2010年02月24日

00.社会

国産飛行船初フライトから100年、先覚者は和歌山市出身

顕彰碑前に看板を設置した小林さん(前列右)ら - 国産飛行船初フライトから100年、先覚者は和歌山市出身

顕彰碑前に看板を設置した小林さん(前列右)ら

日本航空界の先覚者、和歌山市生まれの山田猪三郎いさぶろうが国産飛行船初飛行に成功して100年のことし、市民団体「南葵史談会」が命日の4月8日と初飛行の9月8日に百周年記念行事を催す。21日には、呼びかけ人で同会会員の小林護さん(75)=同市和歌川町=らが新和歌浦にある山田の顕彰碑前に看板を設置。小林さんは「空を飛ぶという人類の夢を和歌山の人が実現させたこと、きっかけが人命救助だったことは誇りです。偉業をもっと知ってもらいたい」と話している。


山田猪三郎は文久3年(1863)、和歌山市新堀七軒町に紀州藩士の子として生まれた。明治19年に串本沖でイギリスの貨物船ノルマントン号が遭難し大勢が犠牲になったことから、救命具の必要性を痛感。ゴム製浮輪の研究を始めた。

大阪で学び同25年に上京。東京に救難浮輪の製造所を開設し、防波救命器の特許を取得。その後気球・飛行船の研究に没頭し同33年、日本初の円筒型係留気球を発明。日露戦争時にも用いられた。

同43年(1910)にはエンジン搭載の山田式1号飛行船を完成させ、国産飛行船として初めて東京上空を往復飛行。その後も2号3号と改良を重ね人々を驚かせたが、病のため51歳で亡くなった。

顕彰碑は昭和4年、和歌浦の海を見晴らす高津子山遊歩道脇に有志が建立した。高さ約1メートルの台座に約4メートルの緑泥片岩(青石)がそびえる堂々とした石碑だが、説明板がないため地元の人も誰の何の碑なのかほとんど知らない状態だった。

小林さんは、紀の国の先人を紹介する県の事業で猪三郎らを担当。「始まりが人命救助だったことに一番感動した」と話す。そして「初飛行100年のことしは東京も注目しています。それなのに地元がよく知らないのは恥ずかしいし申し訳ない」と、碑周辺の草を刈り、自費で立て札を作った。
今後は南葵史談会が碑周辺の清掃を行うとともに、命日の4月8日には碑前で供花と解説を(午後1時半から、誰でも参加可)、初飛行の9月8日には新和歌浦の旅館萬波で百周年記念祝賀会を開く(正午から、要申し込み)。祝賀会には、猪三郎の四代目にあたる(株)気球製作所の豊間清社長も出席する予定。

また、きのくに志学館で開催中の紀の国先人展で、猪三郎の業績が3月半ばまで紹介されている。

記念事業についての問い合わせは小林さん(073・445・0494)。





この記事と関連がありそうな過去の記事

powered by weblio


00.社会 - 同カテゴリの記事






カテゴリー
社会
事件・事故
政治・経済
スポーツ
文化・くらし
紀の川・岩出・海南・紀美野

これまでの特集
月別アーカイブ
株式会社 和歌山新報社
cypress.gif