2010年07月08日

00.社会

和歌山大空襲から65年、忘れられたトンネルはいずこ

昭和20年7月7日に和歌山―大阪がつながったとされるトンネル

「皆の苦労が忘れられない」と野村さん

「65年前のトンネルがどこにあるか、 どなたか知りませんか」 。 和歌山市北新の野村晴一さん(84)が、 戦争末期に同市楠見や貴志地区で陸軍が掘らせたトンネルについて、 特に昭和20年7月7日に和歌山―大阪がつながったとされるトンネルについての情報提供を呼び掛けている。 当時を知る人が高齢になった今、 「戦争を風化させてはいけない。 どんなことでも知らせていただきたい」 と話している。

米軍上陸がうわさされ始めた20年5月5日、 沿岸を防御する陣地構築のため、 第百四十四師団に三つの歩兵聯(れん)隊が作られた。 護阪部隊と呼ばれ、 第四百十三、 第四百十四聯隊は大阪が拠点、 野村さんが属した第四百十五聯隊(護阪二二三〇五部隊)は和歌山が拠点だった。

しかし当時は軍事機密。 野村さんは 「私はただの上等兵だったから、 連れて行かれるまま、 言われるままにトンネルを掘った。 どう使うとかは教えられなかった」 と話す。

兵舎とした貴志小学校で寝起きし、 毎日南海線を越えて掘りに行った。 岩盤をダイナマイトで爆破することもあったが、 ほとんどはつるはし。 「護国の大任畏(かしこ)みて...」 と部隊歌を歌いながらひたすら掘ったという。

「トンネルは幅も高さも2メートルくらい。 何百人もいたからいくつもあったと思う。 そしてその中の一つが大阪とつながった」 と野村さんは次のように話す。

「7月7日夜、 突然校庭に集められ、 上官に 『大阪からと和歌山からのトンネルが貫通した。 10日に祝賀会を開く。 松竹の役者も来るから何でも構わない、 役者が使う道具を持ってくるように。 8日午後4時までに戻れ』 と言われた。 夜10時ごろ家に戻り戸をたたくと、 両親は 『脱走してきたのか』 と驚いていた。 翌日、 重い手回し蓄音機とレコード数枚、 借りた法被を持って戻った。 でも9日夜からの大空襲で祝賀会は中止に。 私の家も焼け、 その晩が、 家で寝た最後になりました」。

トンネルのその後は分からないという。 ちょうど野村さんが幹部候補生試験に通り、 10日から木ノ本に移ったためだ。 戦後は家業や保護司、 消防、 交通少年団などで忙しい日々。 最近になって気になり調べ始めた。

「紀の川の砂を詰めた袋を運んだ。 トンネルのコンクリートに使ったのだろう」 という当時15歳だった男性や、 「20年ほど前、 山に穴がいっぱいあった」 という人もいたが、 トンネル自体は見つかっていない。 野村さんは 「あほなことしたもんやなと思いますが、 忘れられてはいけないと思うのです」 と話している。

連絡は野村さん(TEL073・433・1135)へ。





この記事と関連がありそうな過去の記事

powered by weblio


00.社会 - 同カテゴリの記事






カテゴリー
社会
事件・事故
政治・経済
スポーツ
文化・くらし
紀の川・岩出・海南・紀美野

これまでの特集
月別アーカイブ
株式会社 和歌山新報社
cypress.gif