「レスラー」はまさしくプロレスラーを描いた哀感あふれる秀作だ。今でこそプロレスはエンターテインメントの範疇で語られる事が多いが、馬場、猪木時代には「八百長か否か」などという真剣な論議があった。それを「プロレスは筋書きのあるドラマ」として明快に解き明かしたのは、後に直木賞作家になる村松友視のエッセイ集「私プロレスの味方です」(80年)が最初だったように思う。 映画「レスラー」には、昭和プロレス愛好者には驚きのシーンが当たり前のように用意されている。レスラーが控え室でその日の試合の筋書きを打ち合わせ。ステロイドなどの薬物使用。カミソリの刃で自らの額を切る流血ファイト。分かってはいるもののドキリとするシーンだ。「だから八百長だ」というのではない。そう言われるのが嫌なプロレス者の胸には「なにもそこまで」とグサリ突き刺さる。
しかし、こういった描写がなければ、映画「レスラー」は成立しない。主人公ラムは80年代に活躍したレスラー。全盛期をとうに過ぎてはいるが地方の会場では人気者。そんな彼も、実生活では補聴器をつけ眼鏡を話せない。こんな状態でもリングに上がることが出来る背景にエンターテインメントのプロレスという存在がある。
愛する娘に三行半を突きつけられ、ステロイドのやりすぎで弱った心臓は爆発。バイパス手術で一命を取り止めるがリングには上がれなくなる。それでも最後はまたリングに戻ってゆく…。
ラムを演じるミッキー・ロークが好演。かつては甘い二枚目として80年代に人気を博したスターだが、ここ10数年はスキャンダラスな話題で登場するばかりパッとしない。そんな彼が、主人公ラムの心情に乗り移ったような演技を見せる。「ナインハーフ」に象徴されるようなボソボソとこもったような口跡も健在。かつて“セクシー”と言われた語り口は、人生の重みを語る口跡に変貌を遂げていた。