仇討ちとは、親兄弟などを殺した者を討ち取って恨みを晴らすことで、江戸時代、武士階級で慣習として認められていた。国の近代化に伴い当然廃止されたわけだけれども、日本で最後にオフィシャルなこの「仇討ち」が為された場所が、和歌山と大阪の府県境にある。
JR阪和線と阪和高速、県道64号和歌山貝塚線が和泉山脈と交差する谷間が山中渓。この山中渓は、このほど世界遺産登録をうけた熊野古道の一部分で、今も昔もいわゆる交通の要所、和歌山県民にしてみれば大阪にアクセスする重要な動脈のひとつである。それに、沿道には桜並木が続き、ONシーズンには多くの家族連れで賑わう場所だ。
和歌山側から和泉山脈を登る形で進み、やがて阪和高速とJR阪和線が立体に交差するところに小さな川が流れており、車で通過すると見落としてしまいそうな小さな橋が架かっている。この川が府県境「境川」で、「日本最後の仇討場」の舞台となった「境橋」である。
橋を挟んで大阪側と和歌山側を眺めたところ。
幕末の安政4年(1857)、土佐藩士・廣井大六は棚橋三郎との口論の末切られ、川に投げ込まれて命を落とした。三郎は藩を追放され、大六の一人息子・岩之助は、父の仇を討つため三郎を探す旅に出た。
当時は既に仇討ち禁止令が出されていたが、岩之助の並々ならぬ決意におされ、翌年の安政5年(1858)、勝海舟の取り計らいによって「仇討ち免許状」が交付されたという。
その後、三郎が加太に潜んでいることを知った岩之助は、紀州藩に仇討ちを願い出た。それをうけた奉行所が「三郎を国払いとし境橋より追放するので和泉側にて討つべし」としたため、和歌山と和泉(大阪府)の国境である紀州街道の境橋の北側で、岩之助は見事父の仇を討ったのだそうだ。時は文久3年(1863)、時代が江戸から明治へと移る5年前の出来事だった。
こうして境橋は、日本で許された最後の仇討ちの場所となった。
熊野古道の世界遺産登録を受けて、平成15年、この場に石碑が建てられている。
江戸時代には「仇討ち」が幕府に公認されていた。幕府に「仇討ち」を届け出て「仇討ち令状」を持っていれば被害者の遺族が犯人を殺しても罰せられなかったのである。忠孝を重んずる封建社会では、親の仇を子が討つことが名誉とされた。逆に、親族以外の「仇討ち」は認められなかったらしく、いわゆる赤穂浪士が切腹を命じられたのは、君主の親族でなかったからに他ならない。しかしそれは美談として語り継がれ、仇討ちの美学として半ば伝説化している。
しかしこの「仇討ち」行為を許せば、復讐が復讐を呼びエンドレスで殺戮が続くことになる。また武士の精神に関わる問題であるため、令状を伴わない「仇討ち」も頻発したようだ。その結果明治6年(1873)2月、政府は「仇討ち禁止令」を発布する。近代法治国家を目指す政府は、明文化するほかなかったのだろう。
なお、明治13年(1880)制定の旧刑法にも当然復讐に関する規定はなく、謀殺罪の対象となり、これによって復讐は完全に禁止されるところとなった。
県道64号沿いには、道路脇には付近住民たちが建てた「ゴミステルナ」の看板が林立しており、付近住民の苛立ちが伝わってくる。車窓からゴミを捨てるドライバーがこのロマンチックな歴史に気付くことも無いのだろう。
ひっそり立つ石碑の周りに、秋桜の花が歴史をかばうかのように咲いていた。
[再掲]
仇討ちは、時代劇では人気のクライマックスシーンである。近代国家へと進む日本においてやがて禁止されたこの仇討ちが日本で最後に行われた場所が和歌山であった。
まあ実は「仇討ち」と一口で言ってもいろいろありまして、「幕府の許しを得て令状を持っており」「親族の仇を討つ」のが正確な「仇討ち」といえるようです。従って赤穂浪士の討ち入りはアンオフィシャル。時代劇なんかで街道の茶屋で旅姿の娘さんが浪士に向かって「父の仇!」なんてやってるのとか「助太刀いたす!」とかもオフィシャルかどうかは分からない話でありまして、この「境橋の仇討ち」は「日本で行われたオフィシャルな仇討ち」の最後のものという事のようです。
しかし日本の歴史というのは深いものであります。掘り下げれば掘り下げるほど、広げれば広げるほどに、興味深い話がザクザク。そこにあるものはいつも、ロマンチックな人間ドラマなんですな。