staffblog_title.gif
 スタッフ総出で綴ります
« 猫と猫 | メイン | 染みた »

[]
2009年10月18日
安倍晴明と紀南まとめ


091016ds_seimei_thum.jpg

 2000年前後にブームを巻き起こした陰陽道の大家・安倍晴明(安倍清明)の足跡が、和歌山県南部、特に龍神村に数多く残されている。



安倍晴明社 (田辺市龍神村)
笠塔山伝説 (田辺市龍神村)
晴明伝説に所縁?星神社 (田辺市龍神村)
晴明止め岩(腰かけ石) (中辺路町)
晴明橋遺構 (那智勝浦町)

 延喜20年(920)~寛弘2年(1005)年を生きた実在の陰陽師、安倍晴明(安倍清明)。人間と白狐の間に生まれたという生い立ちをはじめ、生きながらにして伝説化され全国にその噂が広まるほど呪術・占術の使い手として長けたものがあったとされ、時の天皇に寵われ重用された。

 ともするとオカルトチックになりがちな彼についての一般的な研究考察は他の優れたサイトに任せるとして、当調査部では彼と和歌山の関係について考えたい。

 晴明に関するとされる遺構の数々は県南部、特に熊野古道の中辺路以降周辺に集中している。すなわち大阪出身・京都住いの晴明は、熊野古道を通って紀南地方を訪れていた。特に龍神村には若い頃の晴明が数年間滞在した記録も残っており(*1)、陰陽道の修行の地として熊野を選んでいたのであろう。阿倍晴明の家紋、五芒星(☆)は陰陽道の根本五行を意味し、それは役小角が活躍する修験道にも繋がる。修験道の修行の場も熊野である。しかし、いわゆる熊野御行が活発になり熊野の神々が一般化、かつ熊野参詣道が成立する以前(*2)のことであり、晴明が熊野を訪れていたのは純然たる修行のためであると考えられる。

 ただし、熊野御行や参詣道も晴明に関わりがないわけではない。熊野参詣道九十九王子は起点から歩き出してすぐに晴明出生の地といわれる大阪・阿倍野に入り、安倍晴明神社脇を通っている。歴代上皇達はここでまず籠を降り、晴明に参ってからリインカーネイションの道を辿ったのである。この神社にお参りをして熊野詣出発の日時を占ってもらっていたという話もあるらしい。上皇たちにとっては、晴明は亡くなった後も熊野御行の守護者だったのである。それならば参詣道に沿う形で晴明の伝説が点在するのも頷けるし、各地に残る伝説のうち彼の死後後付で創作されたものもあるかもしれない。

 いや、それならもっと在るのではないか。口碑でのみ伝えられている、熊野古道と上皇たち、安倍晴明をむすぶおもしろい伝説が。

---

*1)龍神村大熊地区、龍蔵寺由来によると、「龍神村殿垣内和田谷に山本と申す寺あり・・・安倍晴明三昧に伏す・・・」と記されている。この古文書から推察しても、平安時代和田谷の山本坊に晴明が来て修行したともいえるのである。

*2)熊野行幸は907年の宇多法皇が最初と言われているが、頻繁に行われるようになったのは、1090年の白河上皇の熊野行幸からと言われている。


-----
なぜに今さら安倍清明、と思われるかもしれないが、なーんか飽きてきたのである。熊野古道というロマンチックな遺跡いや現役か、それをただ世界遺産であるというだけで、ああ、凄い物であるなと思い続けることに。なんかピリッと一味足りないと思いませんか、マジで。観光行政の皆さん特に。

歴史には伝説が付き物であるとボクはほのかに思っていて、それがウソかホントかは別にして、確固たる歴史に彩りを添えるものなんじゃなかろうか。今回取り上げた安倍清明は、今でも偉い学者さん達が研究を続けている超一級の素材。我々の手腕が未熟で、一般的な清明イメージとして語られる「化け物との華々しい呪術戦」みたいな派手な伝説に出会うことは今回は少なかったけれども、ちゃんと調べればもっと面白い話が転がってるんじゃないか、てのが手応えです。

PS
映画化もされた小説「帝都大戦」シリーズの悪の主人公、加藤保憲が龍神村出身だってのは、荒俣弘の完全なる創作みたいです。いや、分からんか。今回の調査では出てこなかっただけかもな。しかし、龍神村〜安倍清明〜平将門を結びつけるあたり、さすが荒俣。変な説得力。


2009年10月18日 13:50


shimpo_banner.jpg
わかやま新報は、和歌山市を中心とする和歌山県北部唯一の日刊新聞です。

Yahoo! JAPAN

  • ウェブ全体を検索
  • このサイト内を検索

最近のエントリー
atom

StaffBlog一覧

アーカイブ