熊野三山のひとつ熊野那智大社に、一時期、安倍晴明が庵を結んでいたと伝えられる場所がある。
山上へのアクセスは現在は車で葛篭折れの道を上がるのが一般的だが、そちらは本来の参詣道ではない。葛篭折れの手前から、熊野参詣道の山場・大門坂に入る。歴史を感じさせる杉木立の中の石段を登りきりったところが大門跡、そこから順礼道に沿って青岸渡寺に向かうと、まもなく清明が庵を結んでいた場所付近である。見落としそうになるほど地味な看板がある。
旧史跡晴明橋の石材(路面上)
第65代花山天皇(正暦三年、990年頃)が那智山大滝の山中で千日御参籠苦行の際、お供した安倍晴明(陰陽家)がこの近くに庵をむすび、庵を晴明堂、庵に近い橋を晴明橋と呼んでいた。
昭和45年9月熊野交通株式会社が駐車場を設けたため地形が変わり橋材をここに移したものである。
古い橋は、長さ3間、巾9尺、擬宝珠つきの橋であったが、この石材の橋は、江戸期の仮橋であった。前方「右順礼道」の道標から左上に上がる道は、御幸道であったという。(オフィシャル看板文そのまま)
第65代花山天皇(正暦三年、990年頃)が那智山大滝の山中で千日御参籠苦行の際、お供した安倍晴明(陰陽家)がこの近くに庵をむすび、庵を晴明堂、庵に近い橋を晴明橋と呼んでいた。
昭和45年9月熊野交通株式会社が駐車場を設けたため地形が変わり橋材をここに移したものである。
古い橋は、長さ3間、巾9尺、擬宝珠つきの橋であったが、この石材の橋は、江戸期の仮橋であった。前方「右順礼道」の道標から左上に上がる道は、御幸道であったという。(オフィシャル看板文そのまま)
花山天皇が突然出家して京を抜け出し熊野で修行を行ったというのは史実で、それを察知して晴明が追いかけ付いてきた、というのも事実のようである。
うむう、石材。石材である。晴明橋の石材。せめて橋の形にしておけば、みたいな。文化財遺構を後世に残すとはどういう事か、しみじみ考えさせられる。