和歌山県最北部を東西に走る通称・農面道路を根来寺より東進、某所より北に折れ、林道に入る。数100メートルも登ると路面は一気に荒れ始め、かつての舗装が整備されないまま放置されているようだ。その遥か先に、今回の調査地点、今畑廃村がある。
これらを踏まえ今回の調査は、廃村の存在を確認するまでのものとし、構造物の内部まで調査することは控えました。またこのリポートは、巷にある廃墟の探索を推奨するものではないことをここに明示します。
そこは細いながらも確かにかつては整備された生活道路だったのだろう。しかし舗装は荒れ、路肩の雑草も伸び放題で、まるで我々の前進を拒むかのようだ。そんな舗装もやがて途絶え、轍ばかりが深い泥濘道に。本当にこの先に廃村があるのか・・・隊員たちの心を不安がよぎったその時。
突然、というか案の定、今回の調査車両・ディスカバリー2号がスタック。同マシン自慢のスーパーチャージャーをもってしても、今回の調査はあまりにも過酷だったようだ。以降、徒歩による進攻を余儀なくされる。
目の前に現れた久しぶりの分かれ道。片方は山上に、もう片方は谷間に続いているようだった。腕時計に内蔵されたGPSセンサーが目的地に近いことを示している。事前の調査で村は尾根近くにあることが分かっていたので、山上に向かう。間もなく空気が変わったのを隊員全員が感じ取った。
朽ち始めている舗装路の脇に、放置自動車を発見。相当長い時間が経過しているようだ。
少し進んだところにあった車庫。最初の車は村と無関係であることも考えられるが、この、中の車と一緒に朽ち果てつつある車庫は、紛れもなくこの地で人が生活を営んでいた証だ。車に詳しい人なら車種から時代を推察できるだろう。
無言で進行する隊員たち。剥がれ埋もれかけた舗装の両脇を古い石組みが固めている。廃村は近い。
切り込み隊・[憲]隊員が構造物を発見!実はかつて同地を取材したことがある[尾]隊員が確認に向かう。彼の情報によると、建物は3件残っていたらしいのだが。
周辺の竹薮と同化しつつある廃屋。床、屋根を竹が突き抜け、自然が人工物を抱きこもうとしているようだ。壁が崩れ去った面から中を覗くと、散乱した生活用品とテレビが見えた。あまりに生々しい光景だ。不法侵入者の痕跡も見て取れる。
竹薮をよく見ると、周辺にも生活用品が散乱していた。[海]隊員が検証用に拾い上げたものは、レコード「流し唄競演(COLUMBIA AIS4386)」と小学館の学習雑誌「小学四年生」昭和43年3月号。ほぼ完全な形で保存されていた。感動読みきりまんが「レッツゴーにいちゃん(作:吉森みきを)」が時代を物語る。次月号の付録は「とてもよく飛ぶちょう音速ジェット」だ。
近くにあった井戸。完全に埋まっていた。
「ここにも一軒あったと思うんだけど・・・」[尾]隊員の薄い記憶はアテにならない。背の高いススキが比較的広い平地を埋めていた。当時の物だろうか、朽ちたオートバイが転がっていた。
「ああっ!こっちにもありました!」[憲]隊員の叫びが山内に響く。そういえば、いつからか我々隊員全員がヒソヒソ声で話すようになっていた。[憲]隊員が見つけたのは明らかに民家。さきほどのとは違い、ツタ様の植物に埋もれかけていた。
竹林からは離れており外的な力がかからないせいか、保存状態は良い。しかし元の形のまま静かに朽ちながら時を刻む様子が、少々不気味にも思える。
「こんにちわ~わかやま新報いかがですか~」こんな所でも果敢に拡販活動を試みる[松]隊員。開きっぱなしになった扉から中を覗くと、かまどのようなものが見えた。否、侵入者を阻むトラップかもしれない。
不法侵入になる恐れがあるため、建物の中には一切立ち入らなかった。そもそも、腐り始めた木材の床や柱は大変危険。スタッフブログに命を賭けるほど隊員たちは阿呆ではないのである。
和泉山脈山中にあり、東流する二瀬川の上流に集落がある。中世は芋畑とも書かれ、池田庄に属していた。南北朝時代に活躍した白鬚党で知られた所。江戸期は山崎組に所属、御蔵所の村、ほとんど山岳地帯。
昭和61年刊の打田町史第3巻・通史編にはそう記述があり、同誌の「飲料水施設普及状況」図よりその頃はまだ2世帯が当地に居住していたことが読み取れる。紀の川市役所によると、平成に入った頃はまだ人が居たようだが、いつ、無人になったか等は詳しく分からないという。
記録上の家数・人数の推移 (参考:打田町史)
記録 | 紀伊 続風土記 | 府県史料 | 徴発物件 一覧表 | 池田村誌 | 打田町史 | ||
年 | 天保10 (1829) | 明治6 (1873) | 明治24 (1891) | 大正11 (1922) | 昭和10 (1935) | 昭和25 (1950) | 昭和61 (1986) |
人数(世帯数) | 66(21) | 70(17) | 88(14) | 83(14) | 60(10) | 55(9) | ?(2) |
今畑村は南北朝時代、白髭党(野武士集団、または修験僧集団)の拠点として栄えた場所で、葛城修験(山岳信仰)の行所・宿場のような存在だったようだ。しかし、20世紀末に入っても水道などライフラインが未整備だったうえ、モータリゼーションの中での生活路の未整備(同村には最後まで町道(市道)・県道・国道がいずれも到達しなかった)など、平地に比較した山上の生活の不便さから、住民たちはとうとう山を降りたのだろう。
しかし、それにしてはあまりにも不自然だとも思える。
「住民たちはどこに行ってしまったんでしょう。突然神隠しにでもあったみたいな感じですよね」
そういう[松]隊員に、現地を見た全員が頷いた。住民たちは、不便さから平地に新たに居を構え村を捨てたのだとしても、自家用車や家財道具を山上に放置したまま移住する必然性がない。住民が居なくなった後訪れた何者かが勝手に持ち込んだ、とも想像できるが、それでも自家用車の説明がつかない。
「いろいろ事情あったんちゃうの」
うむう。[海]隊員の考察はいつも真実を射抜くのだった。
「こっちにも何かありますよ!」
ドラクエのダンジョンではまず宝箱をあけて廻るタイプの[憲]隊員がまた何かを見つけたようだ。声は廃村のさらに奥から聞こえてくる。
そこにあったのは、小さな祠だった。なるほど、ここは修験の行場である。「続風土記」によるところの白鬚明神社だ。白鬚党の祭る所にして、佐々木家の末流にて近江の国より勧請す、とある。
その敷地内に、真言宗多聞寺が。内部の本尊は木彫の質素なものだが、新しい花が供えられてあった。近くには暦応3年(1340)の紀年銘のある石碑、年号と女性の名が片仮名で書かれた江戸期の不食供養塔などがあった。そっと手を合わせる[憲]隊員。
打田町の北部・和泉山中には山伏の行場などがたくさんあることが「紀伊続風土記」には記されており、現在も、今畑のほかに神通・滝谷の一の滝・二の滝などが残っている。ちなみに、隣接する粉河エリア・岩出市エリアにも行場が多く、特に粉河の中津川は特筆すべき行場であるほか、粉河寺・根来寺は風猛山・一乗山なる山岳信仰の霊山であり、壮大な行者堂も設けられている。
葛城修験は大変古く平安後期かそれ以前から始まり、中世には白鬚党など修験集団の根拠地として栄え、「諸山縁起」や「葛城峰宿次第」では95宿、江戸後期の「葛峰雑記」においても友が島より「亀か尾」に至る28宿を巡るものとして記されているなど、当時の今畑の隆盛をうかがうことができる。しかし現在は、葛城修験は大峰・金峰山などに比べ著しく衰微し、その痕跡すら忘れ去られようとしているのである。