西暦753年、遣唐使として唐(中国)に渡っていた吉備真備が、帰途で遭難し、なんと和歌山県太地町に漂着していた。
春の太地町は海風も心地よく、どこか異国情緒も香る。捕鯨の町として話題も事欠かないが、この紀伊半島東岸の地に、誰もが小学校の教科書で習ったあの遣唐使が漂着したという。
遣唐使とは、奈良時代の倭(日本)が唐に派遣した朝貢使のこと。630年の犬上御田鍬にはじまり、20年に1度派遣されたものとされる。しかし当時の造船術や航海術は未熟なもので、海上での遭難により唐にたどり着けなかったもの、または帰って来れなかったものも多かった。それでもなお続けられた遣唐使は日本に先進的な政治制度や国際色豊富な文化をもたらし、当時の日本に多大な影響をあたえた。
遣唐使のルートは大阪を出港後、瀬戸内を通って北九州へ、そこから3パターンのルートがあったとされている。
A: 対馬~朝鮮半島沿岸から青島へ
B: 九州西岸~琉球列島を南下し上海へ
C: 五島列島から一気に上海へ
復路は往路の逆を辿る。航海術、造船術の発達に伴い海路が長いルートが取られるようになったようだが、東シナ海を横切るときなどはまさに命がけの大航海だったに違いない。
ナイスな絵看板が立っていた。
そんな遣唐使が漂着したのは太地町の東端、燈明崎。住宅地を抜け、太地中学校の脇を先に行ったところ。道は細く広い駐車場も無いので、中学校からは徒歩で。
雑木林に包まれた岬には遊歩道が整備されていて散策しやすい。というか先端まで一本道。
先端までの途中にひっそりと碑が立っている。
さて、太地町に漂着したのは奈良時代のキーマンの一人、遣唐使副使・吉備真備である。当時勢力を伸ばしつつあった藤原仲麻呂の謀略により遣唐、僧・鑑真を連れてさあ帰ろうというときに遭難、太平洋側に押し出されたあと黒潮に流されて紀伊半島くんだりまで漂流してしまったわけだが、随分と永い漂流だったにちがいない。
吉備真備は漂着後しばらく滞在して帰京したが一族の与呂子右衛門がこの地に残り太地を拓いたと伝えられている。
太地町教育委員会:看板文そのまま
wikiによると、天平勝宝4年(752年)に出港、天平勝宝6年(754年)帰京の第12回便だったようだ。第1船の藤原清河と阿倍仲麻呂は難破し帰れなっかたらしい。無茶しやがって、な感じである。
岬の先には岬の名前の由縁である捕鯨の燈明が復元されている。ぐるり熊野灘300ディグリーズ。碧い海からの波の音に混じって鯨猟師たちの威勢の良い掛け声が聞こえた気がした。
近くには落合博満野球記念館もあったりする。