市民が修復呼び掛け 湊御殿 紀伊狩野の板戸絵(Ⅰ)


「賢人の顔や(裏の絵の)梅の花の白い絵具が剥落している」と心配する仁木さん(唐賢人画)

 和歌山市西浜に移築されている 「湊御殿」 (市指定文化財) に、 紀州藩のお抱え絵師・紀伊狩野 (かのう) が描いたとされる板戸絵がある。 20年前に、 一市民が所有していた同御殿の保存運動に尽力した女性が今、 「大事に保存されているのはありがたいが、 傷んだままなのが気掛かり。 修復し、 もっと多くの人に見てもらいたい」 と市に呼び掛けている。 さらにこの呼び掛けにより、 板戸絵制作年代の謎や、 後世のまずい補修の事実も浮かび上がってきた。

 女性は元所有者の友人だった同市坂田の仁木富子さん (78)。 もともと 「湊御殿」 は、 2代藩主徳川光貞が元禄11年 (1698) に現在の同市湊御殿1丁目に造営した別邸。

 しかし焼失し、 11代藩主斉順 (なりゆき) が天保5年 (1834) に江戸城本丸御殿などを模した新御殿を建造した。 現在の湊御殿はその奥御殿で、 保存運動により市に寄贈され、 養翠園隣に移築された経緯がある。

 仁木さんが憂慮するのは板戸両面に描かれた 「唐賢人画」 と 「梅に鳥図」。 移築前に台風などの災害に何度も遭ったため、 唐賢人の顔や梅の花の白い絵具が剥落している。

 仁木さんは、 管理する市文化振興課と、 20年前の保存運動に協力した紀伊狩野14世の日本画家・狩野紘信 (ひろのぶ) さん (71) =神奈川県鎌倉市=に相談。 このほど3者が絵を点検した。

 ここで浮かび上がったのが、 板戸絵の制作年代と修復についての見解の相違だ。

 制作年代について狩野さんは 「光貞の〈元禄〉時」 とし、 「江戸狩野派初期の水墨装飾画風の作風。 光貞の時代の妙手だった紀伊狩野3代興益が描き、 再建時に10代興永が、 旧資料に基づき誠実に補修し再復した。 興永はこの〈天保〉時最良の妙手で、 300石をいただいていた人です。 紀伊狩野は資料を管理しており、 作風というのは全て流れの中にある。 そして私の血の中に狩野のものは入っている。 板戸絵は火災の際持ち出されたのでしょう」 と話す。

 それに対し市文化振興課は 「あの板戸絵は天保5年の再建時のものと認識している」 と返答。 「ただ、 議論の余地はあると思う」 とも話す。
        (次週に続く)

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