旧粉河中、学徒動員の殉難 戦争の証言①

太平洋戦争末期、当時まだ15歳だった旧制粉河中学校の生徒3人が、学徒動員先の和歌山市の工場で、米軍機の爆撃により無念の死を遂げた。この出来事に衝撃を受けた同窓生たちは、その霊を弔おうと、紀の川市粉河の粉河寺内にある十禅律院に慰霊碑を建立。同窓会を開く度に、碑に手を合わせてきた。多感な青春期の仲間の死は、同窓生の胸に、戦争体験とともに鮮烈な記憶として刻まれている。

昭和19年7月、戦況が悪化する中、旧制粉河中学校の3年から5年までの約450人は、兵庫県明石市の川崎航空機工場に学徒動員された。しかし空爆により工場は壊滅。翌20年3月には、和歌山市の住友金属和歌山工場に再び動員され、寮生活を送りながら、勉学ではなく軍需生産に従事する毎日だった。

5月4日、前日の大阪への空襲の状況を視察に来たと見られる1機の米軍爆撃機B29が〝置き土産〟に7、8発の焼夷弾を落としていった。爆撃で亡くなったのは木村雅彦さん、福井順さん、前田隆広さん。体が弱かった3人は、検査部門におり、住金の正門付近で犠牲になった。

その日、紀の川市粉河の辻田福男(よしお)さん(85)は、すぐ近くの棟で「ドカーン」という雷にも似た大きな爆撃音を聞いた。辻田さんがいた工場の屋根には残骸が突き刺さり、ぱらぱらと破片が落ちてきた。一目散に逃げて何とか難を免れたが、亡くなった3人の他に8人の同窓生が重軽傷を負った。

2人は即死、もう一人も、出血多量で住友病院(旧労災病院)に搬送される途中「お母さん、先に逝きます」と言い、「天皇陛下万歳」とさけび続けたという。

後にそれを知った同窓生たちは悲しみに暮れた。体が弱く、その7日後に動員された同市名手市場の二越和勇さん(85)は「もう少し早く行っていたら、自分が犠牲になっていたかもしれない。それはずっと胸に思い続けてきた」と話す。「地上の阿鼻(あび)叫喚も知らず、スイッチ一つで焼夷弾を落として、戦争とは何とむごいことだったか」

そして迎えた8月15日、「重大な知らせがあるらしい」と集められた工場内の広場で、生徒たちは玉音放送を聞いた。とぎれとぎれで、はっきりと聞き取ることはできなかったが、いくつかの言葉から日本の敗戦を悟った。

辻田さんは「『あぁ、戦争に負けたんや』と、腹が立つというより、情けなかった」。同時に、負けてられるかという強い思いも入り交じっていたという。

3人の慰霊と平和への願いを込め、悲惨な歴史を後世に伝えようと、25年後の昭和45年、和歌山市西庄の赤井信元さん(85)や粉河の井原浩平さん(87)ら同窓生が中心となり、仲間約200人に寄付を呼び掛けた。

同窓生だった十禅律院の不二正順住職(当時)の協力を得て、院内に「動員学徒殉難の碑」を建立。50回忌にあたる平成6年5月4日には、遺族や同窓生ら列席のもと、碑の前で法要を執り行った。同窓生も高齢で半数以上が亡くなり、いまでは碑に参ることができるのは十数人に。約5年前に寄付を募って碑を永代供養とした。

赤井さんは「夏が来るたび、お国のためにと逝った3君の無念を思う」、辻田さんは「私たち若者は、工場で下を向いて働くばかりで、この戦争で死んでも仕方ないと覚悟はできていた。『日本の方向は間違っている』などと言えない時代。平和が訪れたいま、あの戦争は二度と起こしてはいけない」と話す。

碑は緑に囲まれた院内で、静かに平和への祈りを続ける。

同窓生の慰霊碑の前で手を合わせる(左から)辻田さん、二越さん、井原さん

同窓生の慰霊碑の前で手を合わせる(左から)辻田さん、二越さん、井原さん