墜落したB29と村人の慰霊 戦争の証言③

太平洋戦争末期の昭和20年5月5日、米軍の爆撃機B29が田辺市龍神村の山中「西ノ谷」に墜落。元中学校長で当時小学2年生だった古久保健さん(77)は、墜落現場で、川を流れていく人の手首や焼けた肉をついばむカラスを目の当たりにした。村では、敵兵だった乗組員を供養する慰霊祭が終戦前に始まり、毎年欠かすことなく現在まで続く。その歴史を取材したドキュメンタリー映画が反響を広げている。

映画のタイトルは「轟音」。笠原栄理さん(25)が監督を務め、コンピューターグラフィックスを担当した友田一貴さん(25)らと制作した。笠原さんは撮影を開始した平成22年当時、大阪芸術大学映像学科ドキュメンタリーコースの3回生。現在は東京都でアプリゲームのストーリー制作などを手掛けている。

映画制作のきっかけは同コースに届いた1通の手紙。古久保さんから聞いたというB29墜落にまつわる話を伝えるものだった。笠原さんは龍神村に古久保さんを訪ね、卒業制作として映画を撮りたいと伝えた。古久保さんは「自分が体験した真実を的確に伝えてくれるなら」と協力を約束した。

墜落したB29には11人の米兵が乗っており、7人は墜落時に死亡、3人は後に処刑され、1人は行方不明。村人は敵地で命を落とした兵士たちを埋葬し、卒塔婆と十字架を建て、終戦前の昭和20年6月9日に供養している。終戦後、21年5月5日には村当局主催で慰霊祭を行い、22年12月には慰霊碑を建立。以降も毎年、慰霊祭は続けられ、住民をはじめ村内外から人々が訪れて、兵士たちの追悼と平和への祈りをささげている。

平成22年12月に始まった撮影では、墜落にまつわる村内のさまざまな場所を歩き、古久保さんをはじめ人々の話を聴いた。最初は「B29の映画を作らなければ」と思っていた笠原さんだが、「私たち戦争を知らない若者の話では説得力がない。古久保さんの思いを伝えることが、戦争というものを伝えるのに一番説得力がある」と考えるようになった。

古久保さんには強い思いがあった。自分が生まれる前に出征した父が中国で戦死し、墜落したB29の遺族も「家族がどんな場所で亡くなったのか、最期を知りたいんじゃないか」と考えてきた。

遺族を捜す中で、村を訪れ、古久保さんがB29の話をした外国人旅行者から情報が伝わり、米国フロリダ州に住む遺族が見つかった。乗組員トーマス・クロークさんの妹、エリザベスさん。トーマスさんは墜落時に亡くなった一人で、遺体は原形をとどめていなかったという。

エリザベスさんと古久保さんはメールで交信するようになり、ついに出会いが実現する。平成25年10月、渡米した古久保さんは、エリザベスさんにトーマスさんの最期を伝え、撮影中に墜落現場で発見したB29の残骸を手渡した。同行した笠原さんはこの場面を映像に収め、エリザベスさんは映画の中で古久保さんに感謝を伝えている。

「2人が話しているシーンを撮影していて、やりたかったことができたと思えた」と笠原さん。翌年の5月20日、エリザベスさんは83歳で亡くなり、古久保さんとの出会いは一期一会となった。

以前は恐ろしいこととして目を背けてきた戦争だが、笠原さんは撮影を通して「古久保さんたちが大変な時代を生きてきたということを、リアルにイメージできるようになった」と話す。映画を見る人には、「戦争がなければ、僕はもっと幸せだったかもしれない」という古久保さんの言葉をかみしめてもらいたい。

古久保さんは「あの戦争はやってはいけなかった。現代の人々も知らないでは済まされない罪で、日本人は失敗した歴史をずっと背負わなければならない。戦争の歴史を検証し、同じ過ちを二度と繰り返してはいけない。日本人がこれからどう償っていくかが大切だと思う」と話している。
ドキュメンタリー映画「轟音」の上映を希望する人には、DVD、ブルーレイを無料で貸し出している。問い合わせは笠原さん(メールgouon2015@gmail.com)へ。

制作ノートを手にする笠原さん㊥と古久保さん㊨、友田さん

制作ノートを手にする笠原さん㊥と古久保さん㊨、友田さん

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