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和歌山さんぽみちプロジェクト

伊勢路旅(32)三重県松阪市③

前号に続き、築150年を超える御城番屋敷が現存するに至った紀州藩士の軌跡を紹介したい。

御城番屋敷に居住していた紀州藩士らはかつて紀伊田辺藩・紀州徳川家付家老の安藤氏の与力「田辺与力」として活躍していた。田辺与力は地域での信頼が厚く藩内で圧倒的な力をもっておりそれを恐れた安藤氏が安政2年(1855)、田辺与力に対し「今後は安藤家の直参として指図に従うよう」などと記した17箇条の通達を出した。

田辺与力らが通達の受け入れを拒否したところ安政3年(1856)安藤氏から「押し込め」という謹慎処分を下されたことから暇願いを出し浪人生活を送ることとなり、田辺を離れる。

安政5年(1858)、田辺与力の2名が紀州徳川家の菩提寺である長保寺(海南市下津)を訪れ、住職の海弁和尚に安藤氏からの命令撤回と帰参を相談。海弁和尚は幕府や紀州藩、安藤氏に対し田辺与力の帰参を働き掛けるなど手厚く支援。以後、田辺与力らは長保寺で5年間滞在することになる。

文久3年(1863)、突如隠居を命じられた安藤氏に代わった家老が海弁和尚を通じ田辺与力らに再仕官の内示を出し、松阪城御城番40石の士分として紀州藩に帰参。松阪へ移り住み、松阪城三の丸に屋敷地を拝領。2棟に20家族が居住する御城番屋敷が建築された。

再仕官からわずか5年後に明治維新を迎え幕藩体制が崩壊。明治6年(1873)、家禄奉還制度により家禄(年収)の数年分と公債が与えられることとなり、浪人時代から苦楽を共にした御城番の家族らがこれらの資金を持ち寄り、明治11年(1878)合資会社を設立。農業や貸地・貸金業などを行い、以来、御城番屋敷の管理を150年にわたり継続してきた。次号に続く。

公開されている御城番屋敷の一室

公開されている御城番屋敷の一室

(次田尚弘/松阪市)