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和歌山さんぽみちプロジェクト

家康紀行(65)尾張藩7代藩主・宗春の奇策

前号から、天守閣の建て替えが始まった名古屋城内で、ご当地の食文化を発信しようとことし3月末にオープンした「金シャチ横丁」を取り上げている。
金シャチ横丁は、尾張藩初代藩主・義直にちなんだ「義直ゾーン」と、7代藩主・宗春にちなんだ「宗春ゾーン」の二つのエリアで構成。宗春の名が使われた理由は名古屋に華やかで新しい文化を生み出そうと、時の将軍・吉宗が進めた質素倹約の政策と真逆のやり方で名古屋の文化を創り出したことにちなむ。
実は宗春の「宗」の字は、吉宗から1字をもらったものであるという。今週は、徳川宗春について紹介したい。
徳川宗春は元禄9年(1696)、尾張藩3代藩主・綱誠の第20子として生まれる。享保15年(1730)、宗春の兄・継友の急死により尾張藩7代藩主となる。時の将軍・吉宗から偏諱(名から1字をもらうこと)を授かり、宗春と名乗るようになる。尾張藩主になる以前から御家門衆の一人として吉宗と親交があったという。
藩主就任後間もなく名古屋城へ入った宗春は数々の奇策に出る。当時、享保の改革を進める吉宗に対し、規制緩和を行い、民を自由にしたいと「温知政要(おんちせいよう)」という自身の著書を藩士に配布し、行き過ぎた倹約は庶民を苦しめ、規制は違反者を増やすのみだと主張。幕府の倹約方針に異を唱えた。
宗春は自ら奇抜な衣装で巡視に出向き、城下に芝居小屋や遊郭などの遊興施設を設け、夜間の外出を認めるなど、経済の振興に大きく貢献。しかし、間もなくして幕府から詰問を受ける。乱れた藩の士風や財政悪化もあり享保20年(1735)から引き締めに入るも、幕府に目を付けられた宗春は、天文4年(1739)隠居謹慎の命を受けてしまう。
(次田尚弘/名古屋市)