看護師救った温山荘園 和歌山大空襲の記憶

 1945年7月9日、和歌山市の約7割が焦土と化し城の天守閣も失われた和歌山大空襲。市内全域の死者1101人のうち6割強の748人が旧和歌山県庁跡で戦火に巻き込まれた。近隣の小松原通にあった和歌山赤十字病院も焼失したが、その歴史の裏側には同院付属の看護学校で学んでいた女子学生が温山荘園(海南市船尾)へ避難し施設内で被災生活を送ったことや、ある女性の活躍がある。これらの史実を基に、戦後74年目の7月9日を迎えるきょう、改めて当時の惨状と戦後の日本を支えてきた人々に思いを寄せたい。

 『和歌山赤十字病院八十年史』によると、午後11時36分から約3時間続いたB29の爆撃による被害家屋は全焼2万7400余戸、中でも凄惨(せいさん)な被害を受けたのは西汀丁の旧県庁跡広場で、熱気を含んだ想像を絶する大旋風が襲来し多数の犠牲者を出したという。

 さらに、同院の消失や看護学校の学生の処遇については「北東の一角にあった看護婦寄宿舎東寮から燃え出したようである」、「看護婦や同生徒のほとんどは、新田別荘(現海南市温山荘)に収容した」と記されている。また避難時、1200人近い患者や学生を無事に避難させたのは、39年から「看護婦監督」を務めていた国部ヤスヱさん(79年に89歳で没)だった。

 国部さんは海草郡北野上村(現海南市)出身。戦中戦後の献身的な看護活動が評価され51年、県民で初めてフローレンス・ナイチンゲール記章を受章し看護師として最高の栄誉に輝いた。

 52年、その栄誉を記念して刊行された句集『野菊』には、各界からの賛辞が並び、当時の小野真次県知事は「昭和20年7月の和歌山大空襲の際の如き、非常時に於ける数々の功績がありましたが、私の特に推奨したい点は、黙々として、捨石の如く働き続けられた三十七年間の長い努力そのものであります。(中略)まさしく白衣の慈母であります」と記している。

 当時の看護学生で、国部さんの指揮の下、温山荘園に避難した奈良市の丸山タツ子さん(90)は2016年秋、地元のバス旅行で和歌山を訪れ、温山荘園の門構えを見た瞬間「ここや!」と、和歌山市小松原通の「看護婦寄宿舎」から戦火を逃れここまでたどり着いたことを鮮やかに思い出した。

 焼夷弾による火事の、なめるように追い掛けてくる火の手から逃げ惑い、夜が明けると海に着いていた。その後、上官に言われるままに歩いて温山荘園へ。玉音放送は施設内の屋敷の和室で聞いた。約40人の看護学生らと戦後の混乱期を、2カ月近く同施設内で過ごした。食糧難による空腹はつらかったが軍国教育から開放された日々が楽しかった。

 食事は毎日3度、玄米と大豆を混ぜて炊かれたものや、雑穀などが出された。空腹に耐えかね施設内の池に生息していたアオサを採っては、かじっていた。

 池は施設内に造営されていた「潮入式池泉回遊庭園」で、海から水を引いており、潮の干満に応じて水位が上下する。丸山さんは「あったはずの池の水がなくなったと驚きました」。 

 寝泊りをしていたのは屋敷の地下室で、備えられていたビリヤード台の上に寝転がった記憶があり「当時は赤土の土間で、木造の天井は高く、もっと広かったです。柱も窓もありませんでした。当時の庭園はもっと立派でした」と当時を克明に話す。

 戦後丸山さんは約40年にわたって小学校教師を務め、学級崩壊を立て直すなど熱血指導で教え子や保護者に慕われた。さらに約10年前には、なりすまし詐欺の電話を見事に撃退した。その体験を高齢者の集会などで披露し、現在も人生を謳歌(おうか)している。

 「温山荘園に救われていなかったら、命はなかったかもしれません。国部さんは背が高く、優しい方だったという印象が残っています」と語る丸山さんの姿も、より良い社会の構築に大きな貢献を果たした「慈母」である。

1929年ごろの温山荘園(琴ノ浦温山荘園提供)

1929年ごろの温山荘園(琴ノ浦温山荘園提供)

正式の看護帽で国部ヤスヱさん(24歳ごろ、遺族提供)

正式の看護帽で国部ヤスヱさん(24歳ごろ、遺族提供)

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