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和歌山さんぽみちプロジェクト

徳川光圀の一貫した政策

前号では、水戸藩主・徳川頼房の歴史と題し、その生い立ちと水戸藩主が「副将軍」と称される理由について取り上げた。今週は、頼房の三男にあたる徳川光圀(みつくに)の歴史を紹介したい。
徳川光圀(1628―1701)は、水戸藩第2代藩主で、徳川家康の孫。テレビドラマ「水戸黄門」の主人公として知られる。寛永5年(1628)水戸城下の家臣・三木氏の屋敷で生まれ、幼少期は三木氏に育てられる。寛永9年(1632)水戸城に入城。翌年、頼房の世継ぎとして決定し、江戸の小石川邸で教育を受けた。
明暦3年(1657)火災により小石川邸から駒込邸へ移った光圀は、国史の編さん事業に着手。以降、水戸藩で二百数十年に渡り続き、明治時代に完成を遂げたとされる「大日本史」がそれにあたる。大日本史については改めて紹介したい。
寛文元年(1661)頼房が水戸城で死去した際、当時の武家社会の慣例とされた家臣らの殉死を禁じ、「殉死は頼房への忠義であるが、後を継ぐ私に対しては不忠義ではないか」と家臣の家々を巡り伝えたという。2年後には幕府が殉死を禁止する令を出すこととなり、そのきっかけをつくった人物とされる。
藩主となった後は、低湿地帯で井戸が濁るという課題があった水戸の下町への水道敷設を命じ、現在の水戸市笠原町にある湧水を水源とする全長約10㌔を岩樋でつなぐ「笠原水道」に着工。約1年半で完成し、以降、明治時代までこの水道設備が使用された。
また、領内の寺社改革も行い不道徳とされた寺を破却。神社については神仏分離を進め、由緒ある寺院や神社には支援や保護を加えるなど、一貫した政策を執り行ったとされている。
(次田尚弘/水戸市)