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和歌山さんぽみちプロジェクト

偕楽園、攘夷派・斉昭の思惑

前号から、水戸藩9代藩主・徳川斉昭(なりあき)が造営した、世界第2位の面積を誇る都市公園「偕楽園」を取り上げている。「領民と偕(ともに)楽しむ休養場所」と位置付けられたが、斉昭の目的はそれだけではなかったという。今週は偕楽園に込められた斉昭の思いに迫りたい。
偕楽園の造営が計画された天保4年(1833)は大飢饉(ききん)が発生。質素倹約の状況下であったが、せめて庭園の花を眺める機会を与えるべきであるという考えや、藩校で学ぶ者の休息場所、城内で災害が起きた際の避難場所というのが、造営の理由とされる。
しかし、当時は外国船の来航が相次いだ時代。水戸学の教えにのっとり、開国に反対する攘夷論を主張していた斉昭にとって、外国船に対する防衛は大きな課題とされた。実際、園内の建造物である好文亭の3階部分からは太平洋を望むことから、外国船の来航を監視するなど海岸防衛が可能なものであり、幕府には伏せられた裏の目的であったとされる。
また、園内に植えられた梅にも大きな意味がある。単に梅の花を観賞するだけではなく、飢饉や戦時の非常食として梅の実を収穫し蓄えるのが目的であり、意図的に梅の木を育て植樹したという。
現在、園内には100種、3000本もの梅の木が植えられ、実の収穫期である6月上旬ごろ、梅の実を落とし、期間限定で一般に販売するという人気行事がある。
大きな事業を行う中に複数の目的を織り交ぜる。斉昭らしい取り組みであるといえよう。
(次田尚弘/水戸市)