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和歌山さんぽみちプロジェクト

日本一の兵「真田幸村」の歴史

前号では、真田幸村に縁のある長野県上田市の概要と、六文銭が描かれ、夜になると照明で浮き上がる上田駅の駅舎を取り上げた。和歌山県民とりわけ紀北地域の住民にとってはなじみ深い六文銭。駅前には六文銭が描かれた旗と共に、真田幸村の銅像が建つ。今週は、彼と上田市の歴史を紹介したい。
真田幸村は2016年に放送されたNHKの大河ドラマ「真田丸」の主人公。「日本(ひのもと)一の兵(つわもの)」の異名を持つ。生まれは永禄10年(1567)または元亀元年(1570)とされ、真田昌幸の次男。
真田氏は信濃国小県郡の国衆で、幸村の祖父にあたる幸隆の頃に甲斐国の武田信玄に仕え、上田の地を治めた。
幸村の活躍は、織田・徳川の連合軍と武田の間に起きた「天目山の戦」が知られる。武田勢が敗れ、幸村が属する昌幸の軍が上田城に引き返す途中、4万人余りの北条軍に遭遇。幸村は約300人の真田軍を六つの部隊に分け、北条方の松田氏の旗を兵に持たせ、闇討ちをかける戦術を昌幸に提案。松田氏の謀反と思い込んだ北条方が混乱した隙を見て上田城にたどり着くことができた。この功績により、幸村は昌幸から六文銭の旗印を持つことを許されたという。
その後、昌幸と幸村は徳川に属するも対立。豊臣秀吉に仕え、幸村は豊臣方の上杉景勝の人質として暮らす。関ヶ原の戦いでは、幸村は昌幸と共に石田三成らが率いる西軍につき、徳川家康の東軍と争うも敗退。徳川は上田城を破壊し、幸村は高野山に幽閉。隠棲のための庵を九度山に設けた。(次田尚弘/上田市)