和歌山大空襲から77年 語り継ぐ証言①

和歌山市六十谷の石田等さん(88)が手にする数枚の原稿用紙には、7月9日の和歌山大空襲の体験談や戦争への思いが丁寧につづられている。戦争の悲惨さや平和の尊さを伝えようと、地域の小学校で子どもたちに話したこともある。あれから77年目の夏を迎え「戦争が二度と起こらないように体験を語り継ぐのが役目」と話す。

77年前のあの日の夜、当時小学4年生だった石田さんは空襲警報発令のサイレンで目を覚まし、自宅の玄関に造っていた竪穴式の防空壕へ逃げ込んだ。同市中之島にあった自宅は全焼こそ免れたが、焼夷弾により一部焼け落ちた。

戦時中、夜は電灯やローソクなど、照明の使用を制限する「灯火管制」があった。敵の標的になるのを避けるため、この日の夜も明かりを漏らさないよう心掛けながら、紀の川の河川敷にある現「せせらぎ公園」付近の堤防の下にあったカボチャ畑に避難した。

畑に身を隠していると、堤防の上を大勢の被災者らが列をなしているのが見えた。中には、焼けた体で阿鼻叫喚(あびきょうかん)しながら上流に向かって歩く人もいた。「泣き叫ぶ声を聞きながら、あの人たちは何を考え、どこに向かって歩いているんだろうと思った」と振り返る。そして、「知るよしもないけれど、あの光景が今も忘れられない」と静かにつぶやく。

 

「戦争体験を語り継ぎたい」と石田さん

 

叔父らを亡くして

自身はまだ幼かったため兵隊に召集されることはなかったが、叔父にあたる母の弟3人は長男が軍医、次男は海軍、三男は航空隊にそれぞれ志願兵として入隊。次男は落下傘部隊としてサイパン島で、三男は熊本県人吉で特攻隊員として戦死した。

自身の疎開先でもあった母の実家はミカン農家。「ミカン農家を継ぐ」と言っていた次男が戦死し、跡継ぎがなくなった。婿養子をとり、ミカン農家は継いでもらえたが、「戦後の跡継ぎ不足も大きな社会問題だった」と話す。

ミカン農家を継いだ叔母夫婦と共に石田さん夫婦は2008年、県青年僧の会によるサイパンでの戦没者追悼法要に参加した。叔父を含め、多くの兵士らが命を落とした地を訪れ、戦没者慰霊碑にミカンを供えた。

 

平和の尊さかみしめ

数年前にまとめた体験談には「今も心に強く残っている出来事」として「食糧難でひもじい思いをしたこと」、「和歌山大空襲のこと」、「兵士として国のために戦い死んだ叔父のこと」を挙げ、戦争の怖さ、悲惨さを訴える。

その最後は『父母妻子を残して、悲愴な気持ちで死んでいった兵士の心情を思う時、悲惨な戦争を二度と起こしてはならない。祖国のために戦った尊い命の上に、現在の繁栄がある。戦争を忘れるのではなく、語り継ぐべき役目がある』と結んでいる。

この言葉に込めた思いは常に変わらないが、世界は随分変わってしまった。ロシアによるウクライナ侵攻に「戦争はあかんことを各国もよく知っているのに、なぜ今でも戦争をしようと思うのか」と疑問を呈し、「戦争の怖さを知ってもらいたい」との思いを一層強くする。

 


1945年7月9日深夜から10日未明にかけて、和歌山市は米軍機B29による大空襲を受けた。1100人以上が亡くなり、負傷者4000人以上が負傷したあの日から77年。記憶を風化させぬよう、次の世代に語り継ぐ体験者の声を聞いた(全3回)。

 

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