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2009年11月25日

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ここにきてなぜ「脱官僚」 真の改革は公務員制度に
5_5.gif ■2009大江康弘

 第二次世界大戦でドイツナチスの国民啓蒙・宣伝大使ヨーゼフ・パウル・ゲッペルスは 「宣伝を宣伝と気付かせない」 ことをモットーとしたという。 宣伝したい内容をキャッチフレーズ化して、 強調や連呼せず心の中で思っている不満や疑問や欲望を遠まわしに刺激し爆発させる。

 民主党が絶えずマインドコントロールのように繰り返し言っていた 「政権交代」 「脱官僚」 「生活者優先」 「国民目線」 等々の言葉の連呼は正にゲッペルスのいう手法であった。

 その効果もあり、 政権についたが果たして彼らのいう 「政治主導」 が実現したか、 相も変わらず詳細は官僚、 役人が根回しをし、 委員会の質問とりも役人がやってくる、 一体どこが政治家同志の議論や討論なのか。

 そもそも 「官僚政治」 などという言葉の意味が分からない。

 少なくとも、 ふるさとのいろんな政治・行政課題は今までは政治決断ですすめてきたし、 もちろん国政においても途中経過は官僚・役人の知識・知恵・技術を借りても最後は一つひとつ政治家が決断してきたのではなかったか。

 近代日本の幕開けであった、 明治国家の誕生も当初は行政からスタートせざるを得なかった。

 七百年余に及ぶ武家専制を廃し、 公議興論に基づいた政治を行うことは、 ある種の革命であり近代化の道のりは簡単ではなかった。

 五ケ条の御誓文にある 「万機公論に決すべし」 とあるこの開かれた政治参加が、 明治国家をつくり上げる一致した精神であった。

 しかし、 当時の日本は各国との不平等条約を廃し、 改正し、 どう独立国家としての形をつくり上げていくかが最優先であり 「万機公論」 と選挙制度を作って国民一人ひとりの意見を吸い上げていく時間的余裕などなく、 まず、 行政を確立させ、 近代国家の形をつくることが先決であり、 このプランナーを担ったのが伊藤博文であった。

 明治18年 (1885)に内閣制度を作り、 行政機構を確立、 正に行政が主で立法は二番手、 官僚主導は避けて通れない日本近代化の第一歩であり、 明治31年には我国初の政党内閣大隈重信内閣が誕生、 維新以来30年に及ぶ藩閥専制に飽きていた国民の期待は大きかったが、 やみくもに官僚と対立、 機能不全を起こしわずか4カ月で崩壊、 政党だけでは何もできないことが実証された。

 その後、 政党も進化、 改良され大正7年原敬内閣において、 政党と行政機構を横断するやり方は現実的・効果的で、 政治家、 官僚それぞれの役割分担が協働関係を作り上げた。
 紙面の関係で、 これ以上多くは語れないがいずれにしてもそれ以降、 今日までは互いの役割を認識しながらの国づくりがされてきたと思う。

 ここにきて何故 「脱官僚」 なのか。 官僚憎しのスローガンでどれほどの国益が失われているか。 官僚=悪というとらえ方は果たして国の方向を誤らせないだろうか。 国家戦略局や行政刷新会議、 仕分け事業など、 耳障りの良い言葉が聞こえてくるが単に、 組織いじりに熱中しても実質は何も変わらない。

 ここにきて、 本当に見直さなければならないのは真の公務員制度改革であり、 政治家がその時々の都合で役人を政治任用にしたり、 資格任用にしたり使い分けをしてきた結果、 彼等の本来の役割である専門性を生かす場を少なくし、 公務員に何をさせるかという視点が置き去りにされてきたのではないか。

 本当の政治主導というのであれば、 今の霞が関の建前は資格任用だが実態は政治任用という、 この状況を民主党が英断をもって解決することが、 政治主導の第一歩であろう。


(2009大江康弘)
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