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2011年02月08日

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公約はことごとく破棄 正当性の無い政権は退場すべき
5_5.gif ■2011大江康弘

  「人民の為の政治」 なのか 「人民による政治」 なのか、 ここが民主主義かそうでないかの分かれ目だろう。

 モンテスキューが 「国家を滅亡に導くものは、 君主による暴政よりも、 国民の政治に対する無関心である」 と指摘したが 「民主主義の概念」 は国民の大多数が政治の主体を成している政治でありデモクラシーという言葉も古代ギリシャのデモス・クラトス=大衆支配からきていて正に国民が自ら治めることがデモクラシーである。

 民主政治は国民政治であり、 大多数の国民の意志によって運用される仕組みであるので、 最も国民に求められるのは説得による政治に対して大衆がしっかり受け止められる主体を持つことである。

 では、 政治をする側(政権与党)に求められるのは何か、 どう人民を支配し、 統治し、 国家を維持していくのか、 民主政治を支える国民に対する正当性(レジィティマシー)をどう持つのか、 この正当性こそが統治する大きな根拠となっていく。

 古代ギリシャにおいては神話の力で支配し、 言葉を共有することによって共同体を構成し、 やがてその教義はローマ時代に入りキリスト教の教えを体系化していく。

 中世においてキリスト教は一神教とされ神の支配による政治がルターやジョン・カルビンによる宗教改革や宗教戦争終結まで続く。

 その後、 近代に入り、 近代政治の父と呼ばれたマキアヴェッリが登場し、 運命論において自分の運命は自分で決めるものであり、 神の意志ではないと主張、 16世紀後半にはジャン・ボダンが初めて主権という概念を作った。

 主権とは国家の絶対的、 永久的な権力であると定義付け、 ホップスがボダンの主権の概念を科学的に構築し、 宗教対立から政治を解放することによって自己保存という考え方、 人間は生まれながらにして平等であり、 自由であると主張し、 自由の概念を自然法との役割の中で説いていく。

 そのホップスが1651年に発表したリヴァイアサンを基にして国家の在り方を求めていく考えを否定したジョン・ロック(アメリカの建国の父と呼ばれている)は政治権力と政治的義務の正当性の根拠を法に求め、 その根本は人権思想の確立であり、 国家よりも個人の権利が重いとし、 デモクラシーは多数決の原理と定義づけた。

 この様に見ると、 いかに政治にとって人民に対してどう正当性を持たすかという事は、 非常に重く、 大切な事であることが理解できよう。

 しかし、 昨今の日本の民主党政権における政権運営に果たして正当性があるのか。
 一年半前に政権欲しさに出来もしない公約を並べたて、 国民に甘い夢と過大な期待を持たせ政権交代したが、 彼等が唯一正当性を持って国民に示した公約はことごとく破棄され何一つ満足に実現していない。 正にこの政権の正当性はすでに失われているのである。

 ここに、 政治が混迷し、 国民が大きな閉塞感を感じ、 政治不信が無関心層を増大させている理由がある。

 数合わせの連立の組み合わせが言われているが、 ここは一日も早く解散し、 もう一度新たな正当性を国民に示し、 信を得ることが、 政治の王道である。


(2011大江康弘)
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