2008年07月09日

2008 04.文化・くらし

和歌山大空襲から63年 辻本さんが当時の悲惨さ語る

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地図をみながら当時の様子を話す辻本さん

昭和20年7月9日、 和歌山市が火の海に包まれてからきょうで63年目を迎える。 終戦を1カ月余り後に控えた63年前のこの日の夜、多くの人々が戦争の過酷な運命に巻き込まれ、 命を落としけがを負った。 肉親と離ればなれになるなど、 さまざまな悲劇が市民を襲った、決して忘れてはならない和歌山空襲のことを、 当時中学1年生だったツジモトユタカ設計事務所所長の辻本豊さん (76) に聞いた。

「夜の11時半くらいだったか、 最初は和歌山城に火の手が上がり、 次に今の和歌山駅、続いて南海市駅が燃えた。 北新桶屋町に住んでいたが、 親父は 『もうこれで、空襲は終わりだろう』 と思っていたみたいだった」 と、 当時を振り返る。
「ところが20分ぐらいたって、 近所が燃え始めたんや。 道を隔てた家が焼けるの見ながら 『今から逃げなあかん』 となって、親子5人で外へ出た。 熱いのと人混みで右往左往したよ。 とにかく、 普段は10分ぐらいで行ける紀和駅 (当時の和歌山駅) まで、2時間くらいかかったのを覚えてる」
「防空頭巾なんて効き目がなくて、 夏布団を水に浸して頭からかぶって逃げた。 ぼくは、 小3の弟の手をひいて、 4歳の妹は親父の背中にいたな。 川や堀に逃げる人もいたけど、 おそらく一酸化炭素中毒で亡くなったんやないかな」
その後、 紀の川の堤防へ出ると多くの人が避難していた。 そこでも、 米戦闘機グラマンの機銃攻撃があって、 多くの人々が命を失った。 翌日、家があった場所に戻った辻本さんが見たのは 「家は焼けていたよ。 真っ黒な人の死体がゴロゴロ転がっていて、 赤くなった瓦や、半分熔けて形が変わった一升瓶が散らばっているだけ」。 まるで地獄のような風景だったという。
最後に、 辻本さんは 「人は一人では生きられないということ。 ご飯を食べるにしたって、田んぼに水を引く人、 釜を作る人、 茶碗を作る人。 それぞれの役割をみんなが担っている。アメリカ人だろうと韓国人だろうと同じだ。 同じ人間同士がお互いに殺し合うのはおかしな話だ。当時は、 逃げるのに必死で、 そこまで考えなかったけどね」 と次の世代へのメッセージを投げかけた。





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