2011年07月08日

05.紀の川・岩出・海南・紀美野

大空襲から66年 三木さん当時振り返る

和歌山大空襲  語り部

平和な世の中を願う三木さん

約1400人が犠牲になったとされる和歌山大空襲から、 9日で66年が経過する。 子どものころ和歌山市西蔵前丁に住んでいた海南市シルバー人材センター海南事務所所長の三木秀男さん (74) は 「あの日は絶対に忘れはしない。 空襲で亡くなられた方々のご冥福を祈りたい」 と当時を振り返る。

三木さんの家は南海和歌山市駅の裏、 紀の川の堤防近くにあった。 1歳から16歳までの子ども6人を含む8人家族で、 当時三木さんは小学校2年生だった。 午後9時ごろ、 警戒警報が鳴り響くのが毎夜のことで、 その日も同様に鳴った。 母は乳飲み子の妹を背負い、 三木さんら子ども5人を連れ、 防空壕(ごう) へ避難した。サイレンが再び鳴り、母は 「警戒警報解除したのか。 よし、 みんな帰ろか」 と家に帰ろうとした時、 爆音が耳に入った。 シュルシュル、ゴーゴーと爆音を響かせ、 焼姨 (しょうい)弾が激しく降り注いだ。 三木さんは 「雷神が暴れているかのようでびっくりした」。 辺りは一気に燃え上がり、 一家は必死で防空壕へと引き返した。 三木さんは靴が脱げ拾おうと止まると、 母が 「そんなことしてたら命ないで!」 と手を強く握った。 裸足のまま走り、 やっとの思いで防空壕へ転がり込んだ。 数十秒遅ければ全員の命がなかった。 市内を焼き尽くし、 暑くて長かった夜が明けた。

外は辺り一面、 焼け野原になっていた。 燃え残ったのは鉄骨の残骸だけ。 空には煙がこもり、 太陽は見えなかった。 薄暗いすすけた道のあちこちに黒こげの死体が横たわり、 男女の見分けも付かなかった。 一家は鍋やふとんを担いで、 着の身着のままで歩いた。

県庁に着くと、 中から職員が出てきた。 父と一言二言交わし、「はい」 と三木さんにある袋を手渡した。 中には乾パンが入っていた。それを兄弟と割って食べた。 硬かったが、 ゆっくりとかんで味わった。 三木さんは 「食べ物がない時、 あの乾パンは本当にありがたかった。 職員さんの優しさは忘れはしません。いつまでもいつまでも、 戦争のない平和な世の中であることを願います」 と話している。





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