県政の巨星・妙中正一先生を偲ぶ 卓越したリーダーシップと懐深い人間力

二階 俊博

今年は8月に入り格段と厳しい暑さが続きますが、私も例年と同様に、父の郷里である白浜町(旧日置川町)と母の郷里である田辺市(旧龍神村)を訪問し、地域の皆さまとともに先祖の墓前に手を合わせてまいりました。毎年の恒例行事でもあるお盆のお墓参りは先祖を思うと同時に、私たちを育ててくれた故郷を思う日でもあり、私にとっては政治家としての原点に立ち返る日でもあります。
お盆を迎えると、既に鬼籍に入られた多くの方々を思い起こしますが、37年前の8月10日にお亡くなりになられたのが、妙中正一先生でありました。まさに「県政の巨星」として和歌山県をこよなく愛し、情熱の限りを尽くされた先生でした。私も同じ時期に県議会議員であった、亡父俊太郎が古くから懇意にさせていただいたご縁で、私の県議初当選から国政挑戦を決意するまでの間、温かくご指導いただいたことは時を経た今も決して忘れることができません。
妙中正一先生は明治42年に伊都郡妙寺村(現かつらぎ町)で生を受けられました。伝統的に綿花栽培が盛んな当地域では「川上ネル」と呼ばれた製品が後の「パイル織物」に発展したと伺っています。そのような背景のもと妙中先生は経営者として地場産業の成長を期し妙中パイル織物株式会社を興す一方、自らの工場が昭和28年の「7・18水害」等で被害を受けたこともあり、政治家として当地域の最重要政治課題であった紀ノ川の治水対策に果敢に取り組まれました。
「もっと政治力のある県会議員をつくって、水害の無い紀ノ川にしてもらいたい」。当時、水害に悩む地元住民の切なる声を妙中先生は幾度となく耳にされたことと思います。当時、地元の消防団長として防災活動に従事されていた先生は、勇躍、県議選に立候補し見事トップ当選を飾られました。
県議になられてからは瞬く間に手腕を発揮され、後に紀ノ川の改修が大きく進み、流域での水害が減少したことは先生の功績と誰もが認めるところであります。
また、その卓越したリーダーシップと苦労人ならではの懐深い人間力は、今でも県政界において語り草となっています。
私が昭和50年の県議選で初当選した時、既に妙中先生は自由民主党和歌山県連の重鎮の座を不動のものとされていました。無所属で当選した私は当選同期の若手議員を中心に「清新自民党県議団」を結成し、自民党に入党しつつ妙中先生をはじめとする先輩議員の胸を借りる毎日でした。ベテランと若手で意見が対立することもしばしばありました。そんな私が衆議院選挙に出馬する決意を固めた際、妙中先生から「二階君、今度の衆院選に田中派から出るらしいが、ワシも前から田中(角栄)先生にかわいがってもらっているので一緒にあいさつに行こう」と声をかけてくださいました。私は先生のお言葉に甘え、東京の田中先生を訪ねることになりました。その道中では若いころの苦労話等を聞かせていただきました。特に奥様の理解があって今の自分があると話されていたことは非常に印象深く思い出されます。何より、ひとりの後輩県議に時間と労力を割いてくださった先生のお気持ちが言葉に尽くせないほどうれしくありがたいものでした。
昭和58年8月10日、私が衆議院議員に初当選するわずか4カ月前、妙中先生はこの世を去られました。あれから37年の星霜が過ぎました。先生がこよなく愛し、情熱の限りを尽くされた和歌山県の発展に全てを尽くすことが、先生のご恩に報いる道であると考えます。
改めて、妙中正一先生に感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。

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