日米交流の始まりは串本 歴史事実を活用すべき

玉置 公良

 3月5日、 国会の予算委員会で、 私、 玉置公良がやったことは以下の通りです。

  「日米交流の始まりの地は和歌山県串本町だ」 ということを日米の歴史事実を並べて、 国会で初めて外務大臣、 文部科学大臣政務官に見解を尋ねました。

 玄葉光一郎外務大臣は 「米国に通商意志があったのではないかということについて大変関心をもった。 この時点で、 日米の交流が国と国とは別にして、 あった。 ということが分かった」。 城井崇文部科学大臣政務官は 「歴史的な意義がはっきりと示される状況が出てくるようになれば教科書に反映されることもあり得るのではないかと思っている」 などと答えました。

 日米の最初の出会いの地は和歌山県串本。 人と人との交流の始まりは串本が原点。 その事実を共有してもらえたことは、 大変大きな意味がありました。 これまで、 このことに取り組んでこられました田辺市出身の作家佐山和夫先生をはじめ、 串本町や関係者の皆様のご尽力に報いるためにも、 今後国の外交史料館などに 「ペリー以前の日米交流の歴史」 も加えて頂くことや、 ケンドリック船長の故郷アバディーン市との交流など外務省の支援を働きかけていきたいと思います。 また、 外務大臣に一度串本に訪れて頂き、 その事実を後押し、 新しい歴史を作っていきたい。 と玉置は考えております。

 始まりは浦賀ではなく串本、 という証拠はなんでしょうか。

 黒船ペリーの来航よりも、 62年も早い1791年4月28日、 米国の帆船二隻が、 私の地元和歌山県串本の沖合に現れ、 大島樫野崎に上陸。 11日間停泊し、 通商を求めたという事実は文献で残っております。

 アメリカの歴史書には、 最初に行ったアメリカ人としてケンドリック船長の名が、 また最初の船としてレディー・ワシントン号の名がかかげられています。 日本では、 紀州徳川家の歴史を記した 「南紀徳川史」 などに同様の事実が記されています。 日本の記録では漂着となっております。

 アメリカでは最初から日本を通商の相手国として意識し、 計画の一部に入っていたようです。 独立して間もないアメリカから国名を名乗り国旗を掲げて日本へやってきたのはこれが歴史上で最初。 アメリカでは船の復元までして、 この記念すべき船を祝っています。 この米国船とは、 1789年ボストンを出港した帆船レディー・ワシントン号(90㌧)、 船長はジョン・ケンドリック。 ラッコの毛皮を500枚積んで中国広東に売りに行ったが売れなかったので、 1791年串本へ来航、 「4、 5日間(実際は11日間)滞航するが、 風に恵まれれば日本を去る」 と言ったという日本の記録があります。

 アメリカ側にとってはペリー来航の前哨戦ともなる通商目的でありました。 当時の日本は鎖国中であったため日本側の記述の仕方に制限がありましたので、 漂着という形をとったことがアメリカ側にとって接岸する唯一の方法であったと思われます。 「漂着」 だったとしておくことが、 日米双方にとって最も無難な方法だったのでしょう。

 出発を前にしたケンドリック船長あての要請文には「…貴殿と現地人との間に、 つねに協調と友情がありますように、 そして通商において相手の無知につけ込むことのないように願うと同時に、 アメリカ人の代表として、 正直な行為により、 それぞれの土地の人の心に友愛の情を植え付けるよう努力されますことを祈っております…」、 生きて帰った乗組員の回顧録には 「…日本の南の海で、 このうえない大歓迎を受けた…」 とあります。

 すばらしい日米交流の歴史がここから始まったのです。 「従来の日米関係の歴史は、 ペリーの脅しで始まり、 原爆で終わった。 ずっと日本は脅されっぱなし」。 最近こうした表現をしている書物が多く見られます。 このままでは、 日米関係が曲解してしまう危惧を感じます。 正しい歴史事実を知ることが今こそ必要な時だと思うのです。 このように、 「公平な精神」 で日米の交流がはじまった、 その歴史事実は尊いし、 重い。 日本は、 積極的にこのことを取り上げ、 日米交流発展に活用すべきと思います。

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