放送アーカイブの実現を 学術・文化への利用が目標

鶴保 庸介

 参議院で 「社会保障と税の一体改革」 法案の審議がはじまりましたが、 その間にいよいよ私たち議運の 「ライフワーク」 ともいえる国会図書館放送アーカイブに関する検討を進めています。

 放送局側の方々と意見交換をしてみたり、 学識経験者の意見を聞きに行ったり。

 そんな中、 いよいよ放送局側から 「慎重に検討してほしい」 とあちこちのセンセイ方に要請に動いていることも聞こえてきました。

 私がこの稿で書いたことが物議を醸しているようなので、 明確にしておきたいと思います。

 以前、 私は放送の妥当性をできる限り担保することがこの国の健全な世論形成には必要だと主張しました。

 しかしそれが、 政治家が放送局に政治的圧力を加えることを容認しているかのような喧伝(けんでん)をされ、 あたかも検閲に当たるかのような印象を説明に行った国会のセンセイに与えることで、 映像の保存をさせまいとする慎重派に利用されてしまっています。

 はっきりとさせておきますが、 私は政治家がこれら映像を利用し内容をうんぬんすることは謙抑的であるべきだ、 むしろそのようなことを禁止する一行を法律に書き入れてもいいぐらいだと個人的には思います。

 その一方で、 録画技術の向上により、 誰でも簡単に録画できる今日、 政治家の利用を禁じることは無意味ではないかという気もいたします。

 むしろ、 こうした映像を見て国民がどう感じたか、 それこそが政治家の行動を決めるものであり、 当該政治家の評価を決めるものであるはずです。

 しかし、 その主役たる国民の 「知る権利」 はここで制約されています。 国民が現状で見ることができるのは、 放送された映像の一部であったり、 真に見たい、 知りたいと思う放送映像とは違うものであったりするのです。

 放送はそもそも何のためにあるのか。 それは国民の知る権利に資するものであるから尊いのです。 だからこそ、 様々な制約はあれ、 公共の電波を供与するなどの 「特権」 が与えられているのではないでしょうか。

 国立国会図書館法にしても、 第15条第2号で両院、 委員会及び議員への資料情報の提供は党派的、 官僚的偏見にとらわれてはいけないとうたっています。

 つまり政治的に利用してはいけませんよ、 と法律に明確に書いている機関なのであって、 これほど政治的に利用されにくい機関もない、 というのが感想ですが、 なぜか放送局側は収まらない。

 私の原稿を持って 「政治家がこんなことを言っている。 これは検閲だ、 表現の自由の侵害だ」 とあちこちで慎重論をぶつならなぜ、 いかにしてこうした政治利用がなされないような建設的な意見をいただけないものなのでしょうか。

 放送し、 発信してしまったものは文字どおりの検閲ではありません。 むしろ、 私の原稿を慎重派のみなさんが 「利用」 されるように、 映像も様々な形で 「利用」 されるべきではないでしょうか。

 保存した映像が学術的、 文化的目的で利用されること。 それがこのたびの大きな目標であること、 もう一度それを強調しておきたいと思います。

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